THE長文日記

長文とか短文とかのクレームは一切受け付けません

芸術について

先日、河口洋一郎先生が新しいアトリエを開いたというので遊びに行ってきた。



「アルスに行ってきたんですよ」


「アルスね。行こうと思ってたんだけどいけなくなっちゃったんだよね」


「現地ではやはり河口洋一郎先生が話題になってましたよ。やはり物体を作る方にいった河口先生は凄い、と」


「というかね、動くものはこわれちゃうから保存がきかないんだよね。そうすると美術館は買ってくれないんだよ。壊れちゃうものは。だから彫刻とかスケッチとかにいくわけで」


「え、そういう理由なんですか?」


「芸術だけで食おうと思ったらね、100年でも200年でも保存が効くものじゃないと。だから絵画とかはいまでも高い値段が付いてるでしょう」


河口先生の作品を最初に見た時、これはわけがわからないと思った。
しかし何度もみているうちに、その作品の奥に隠された意図や感覚が少しずつわかってくるようになった。


ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」を見てマティスが怒り出したのと同じように、あまりに非現実的な芸術はすぐには理解できない。


しかし確かに河口先生の作品は独創性という点では群を抜いており、いまある芸術作品の中で100年先にも残りそうという意味では間違いなくこういう方向性はアリなのかもしれないと思わせてしまうくらい説得力に溢れている。


そして河口先生という人は、本気で死ぬまでにピカソやデ・キリコを乗り越えようとしているのである。
さらにいえば、そのためには今あるような作品群は、実に理にかなったものに見えるのである。
ピカソやキリコが持たない道具、計算機を縦横無尽に使い、計算機でしか表現し得ないフラクタル構造と三次元構造を超越した高次元構造物の三次元断面のように見える造形美。そしてアントニ・ガウディも目玉をひん剥くような毒々しい極彩色のカラーリングは、ジュゼップ・ジュジョールの仕事のような印象さえ受ける。


それはほとんど狂気であり、そして狂気なき芸術は芸術としての要件を満たしていないのだ。


いつの日か河口先生の作品がサザビーズのオークションで何十億という値段がつくかもしれない。



そう思うと、いまのうちにスケッチの一枚くらいもらっておけばよかったと思った。
いや、もしかすると毎回SIGGRAPHの SAKE Partyで配っている枡は、そういう意味があるのかもしれない。家宝にするか。


ピカソの作品群の中で僕が最も印象的なのはゲルニカで、僕の通っていた中学校にはその巨大な模写が飾ってあった。なぜ、誰がこれを中学校に飾ろうと思ったのか。ゲルニカの空爆と長岡の空襲をかけたものなのか、意図も理由も不明だが、強く心に響いたのを覚えている。それで十分なのだろう。


思うに、人が芸術との接する方法は三通りしかない。
一つは無視すること、もう一つは所有すること、最後の一つはそれを盗むこと。


そう考えると、美術館に来ている観客達は皆泥棒だということになる。
ピカソ曰く、芸術を盗むことができるのは一握りの天才だけで、多くの凡人は模倣することしかできないという。


河口先生の作品は間違いなく盗んだものだ。
誰から、どこから、ということが全くわからない。



それを凡人は独創性と呼ぶ。
そうとしか理解できないからだ。


でもおそらくきっとそれで良いのだ。