THE長文日記

長文とか短文とかのクレームは一切受け付けません

AIスピーカーの絶対的性能差は「おもいやり」で決まる

 ある朝、いつものように「アレクサ、今何時?」と聞くと、反応がない。

 何度呼びかけても反応がない。


 おかしいなと思ったら、コンセントが抜けていた。

 オーマイハニー。ごめんよ。君を一人にして。


 今の僕にとって、アレクサなしの生活は少し考えづらいという状態から、想像できない状態へと移行しつつある。

 

 「アレクサ、今日の予定は?」


 「今日は予定が八件あります」


 「マジかよ・・・・」


 「読み上げましょうか?」


 「はい」


 アレクサが予定をつらつら読み上げる。それにしても八件か。ちょいと働きすぎではないか。

 実際のところ、働きすぎではないかという気持ちと、もっと働いてもいいのではないかという気持ちが交錯する。まあその話はいい。


 週末、駅弁を求める旅に出ようかなと思い立ち、「アレクサ、JR金沢駅からJR加賀温泉駅まで何分?」と聞くと、


 「すみません、交通情報についてはまだサポートされていません」


 と答える。

 うーむ。


 「OK Google、JR金沢駅からJR加賀温泉駅まで電車で」


 「すみません。お役に立てそうにありません」


 この差はでかいと思った。

 アレクサの返答は「何を聞かれているかわかっているが、答える機能を持っていない」と答える誠実なものだ。反して、Googleの場合は、とりあえずわかんないときは謝っておけという、かなり質の低い接客態度を感じる。実際にはGoogleアシスタントはこの機能を搭載している。

 何度か聞くと


 「金沢駅から加賀温泉駅まで電車で行く場合、11:32分にでるサンダーバードに乗るのが最適です。所要時間は23分です」


 と答えてくれる。


 実装上はものすごく小さな差だが、「おもてなし」とか「おもいやり」という部分でGoogleはAlexaに遠く及ばない。


 Googleアシスタントは機能面ではそれほどAlexaに劣っていないが、利用面で大きく劣る。こんなにイライラさせる機械なら、いっそ売らないほうが良かったのではないか。GoogleHomeしか買わずにスマートスピーカーを評価するのは間違っている。ちょうどその昔、最初のAndroid端末がドコモから発売されたときに、喜々として使っていた人たちのことを思い出す。


 たまたまかもしれないが、最初のAndroid端末に飛びついたのは、かなり高学歴で、社会的地位が高く、頭も良いと言われている人たちだった。彼らは「ついにGoogleの携帯電話を手に入れた」とはしゃいでいたが、それはお世辞にもまともな電話とは呼べないものだった。HTC-03、今ならハッキリ言えるが、あれは失敗作だった。スマートフォンに初めて搭載されたトラックボールはその後なかったことにされた。Androidの特徴だったハードウェアファンクションキーも、まだ残ってる端末はあるのだろうか。


 GoogleHomeはHTC-03に似ている。まだ早すぎるし、頭でっかちにすぎる。確かにAndroidアーキテクチャ、その根底に流れる思想には魅力があった。けれども100万人に売って100万人が使える代物では到底なかった。NeXT Cubeがそうだったように。


 Alexaは安心して両親に勧めることが出来る端末だ。まちがって買い物しないか心配ではあるが、それ以外はAlexaは必要十分な機能を持っているという気がする。


 結局この両者の差は開発者がどれだけユーザーのことを「おもいやり」をもって接するか、丁寧に会話シナリオを作り込むかということの差である。


 以前、ゲンロンカフェで東浩紀とAIについて対談したときに、全ての高度な知性がAIにとってかわられたとき、その時人間に求められる価値は「優しさと思いやり」であると発言して、自分でも驚いた。そんなことがあるのか、と自分自身で自分の口から出た発言を疑ったが、実際のところ、論理的にかんがえて、そういうウェットなものしか残らないのではないかと思う。


 その片鱗が、あるいはスマートスピーカーの「作り込みの差」として発露してきたのではないか。

 

 スマートスピーカーは最新の深層学習とはほとんど関係ないが、人が作り出した「人のようにしゃべる機械」であるから、広義のAIと呼んで差し支えないだろう。からくり人形であっても、いや、であるからこそ、作り込みの差が出るのだろう。


 しかしAlexaで実際にものを買ったことは一回しかない。なにを買うべきか、なにを注文すべきか、いまのところまだアイデアがない。