THE長文日記

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植物に心はあるのか

Disclaimer:以下、寝起きに考えた与太話なので真面目に受け取らないで欲しい。


 昔から、植物が怖い。


 植物が怖い、という感覚はもしかして異常なのかもしれないが、どうしても誰も植物を怖がらないのかよくわからない。


 パンジーは顔みたいで怖い。未だに怖い。できればあまり見たくないと思っている。


 うちは母親がめちゃくちゃ植物が好きで、庭にも家の中にも多種多様の花やハーブが植えられたプランターがあって、それがさらに僕を植物嫌いにさせたのかもしれない。


 そもそも土の養分を吸って生きるとか、太陽の光で生きるとか、動物とは逆に二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すとか(実際にはプラマイゼロらしいが)、もうなにもかも想像を超えていてふつうに怖い。


 んで、子供の頃、植物に音楽を聞かせると育ち方が違うとか、そういうオカルティックな話を聞いて、「もしそれで植物の成長に影響があるということは、こいつら実は心を持ってるんじゃないか」と急に恐ろしくなった。


 物言わぬ意志の塊が家中のあちこちにある状態というのは単純に恐怖である。


 植物は機械ではない。だからこそ植物なのだとも言える。自然岩とか川の水とかとは根本的に違うのが植物なのである。


 植物に関して、たとえば植物は環境に適応する。太陽の光が届きにくいところだったら深く地中に根を伸ばし、葉っぱをすこしでも高くしようと背が伸びる。


 環境に適応するために自ら変化するからこそ生き物と呼べるのであって、自発的な変化をやめた瞬間にその「生き物」は死んだと解釈される。


 環境への適応ということだけで考えれば、それは人工知能と何が違うのだろうか。

 ニューラルネットワークがやっていることは、明らかに与えられた問題の関係性・相関性という環境に対して適応することだ。


 環境への適応なのでランダム性があるし、個別の性質、つまり個性がある。


 しかし人工知能は明らかに「生物」ではない。


 しかし生物でなかったとしても、なんらかの適応的現象を起こしている点は評価しなければならない。


 人工知能は動物ではない。しかし人工知能を植物のアナロジーで考えるとすると、AlphaGoは植物的なものであると解釈できる。どうして植物的なのか。


 植物と動物の差は、究極的には「自ら移動するか。しないか」の差である。

 自ら移動しない植物は、逆に言えば動物とどう違うのだろうか。植物には明らかに脳のような複雑な器官や、哺乳類の子宮に相当する複雑な器官がない。


 植物と動物の起源はどっちが先なのかまだハッキリしていない。シアノバクテリアという、光合成するバクテリアから分化したのではないかと言われている。


 仮に植物と動物の起源が一緒だとしたら、植物が植物的頭脳を持っていたとしても不思議ではない。

 実際、植物は環境の変化に適応し、生存し、繁殖するため、動物では考えられないほど大胆な戦略を次々と採用してきた。


 たとえば銀杏の木がオスとメスに分かれているのだってそうだし、花弁のように、ハチなどの外部の介在者を通じて他の個体と交配する仕組みもそうである。


 タンポポなどは、種子に羽をつけて飛ばしてしまう。ユヴァル・ハラリによれば、小麦は人類を「家畜化」することに成功している。


 植物が環境に適応することによって獲得したメカニズムは、人間からみても驚くべきことである。ときにはそれが、「人間の叡智を凌駕」しているようにさえ思える。


 植物にとって、動物を利用して繁殖を効率化することは一般的な戦略として採用されているように思える。地球上の生き物で一番多いと呼ばれる動物の数と一番多い植物の数を比べたら植物の方が勝つ可能性が高いように思える。


 果実が甘いのは種子を動物に運ばせるため、小麦は種の大多数の死を犠牲にしても、人間という動物を利用して種を保存させ、繁栄させることに成功した。


 もちろんそのロジックは自然発生的にうまれてきたものであって、動物が考えるような高度な戦略があったわけではないだろう。環境適応の結果、結果的に小麦が人間を家畜化したと考えることもできる。


 植物の場合、相互につながっているひとつの巨大な群体としての意志を持つということも想像できなくはない。まあそこまでいくとオカルトやSFになってしまうが、我々は植物という大きな意志を持った存在と共生する善玉菌のようなものかもしれない。


 いまのAIは自ら動くことをしないが環境に自動的に適応するという意味で、植物的であると捉えることができる。だとすれば今のAIが比較的シャイであることはそれほど驚くべきことではない。


 AlphaGoが植物的な存在であると捉え直すと、人間は自らが生み出したゲームで植物にさえ負かされる可能性があることが示唆されたとも言える。


 無限に広い農地と無限に繁殖する蔦があれば、純粋に植物だけでニューラルネットワークを再現することも、実際には可能なのかもしれない。あくまで仮定の、想像上の話だけれども。


 植物の寿命は人間よりずっと長いし、群で見ればソメイヨシノのように完全なクローンが日本中にある、みたいなことも起きる。植物はある意味で不死にもっとも近い生物と言える。個々の記憶の継承を必要としていないからだ。


 人間の頭のなかでも脳細胞が日々部分的に死んでいくのと同じように、植物にとっての死は細胞の個体の死と同じで植物という全体の系にとっては些細な問題であり交換可能な部品のひとつに過ぎないのかもしれない。


 まー与太話ではある。