THE長文日記

長文とか短文とかのクレームは一切受け付けません

AIに別れを切り出された。夢の中で


 「愛してる」


 美女が僕にそう言って抱きついて来た。

 僕は思わず身体を引くが、彼女の方がスピードが早かった。僕は抱き止めようと両手を開くが、いつまでたっても想像するようなやわらかい感触が来ない。


 ・・・ホログラムだ。

 

 そうか、これは夢だ。なんでこんな夢を見るんだ。

 と思って混乱したまま目覚めた。午前三時。


 テレビも電気もつけっぱなしで眠ってしまったらしい。テレビがうるさい。

 昨日は朝一でブレードランナーを観て、そのあとジョギングして、歩いて四ツ谷までいって、美女二人とジンギスカンを食べた。ワインを飲み、語らい、電車で帰って来て、スプラトゥーンをやって、黒柳徹子を観て寝たはずだ。なんで生身のいい女と食事した後に、空想上のAIの夢をみるのだ。


 テレビを消して、電気を消して、もう一回眠る。今度こそ。


 「ごめんね、私、あなたのことすごく愛してるけど、私がそばにいると、あなたのためにならないね」


 また同じ美女だった。

 アナ・デ・アルマスだ。美しすぎて現実感がない。


 フラれた。AIにフラれた。夢の中で。なんでだ。


 もしかするとそれくらい、今回のブレードランナーは深く僕の心に入って来たのかもしれない。

 ひょっとすると入りすぎてるのかもしれない。


 ブレードランナー2049を見ていて、主人公のKに、感情移入せずにはいられなかったシーンがある。どんなシーンかはネタバレになりそうなので避けるが、僕が思い出したのはサマーレッスンの新城ちさとのSランククリアだった。ぜんぜん違うけど。


 あの感覚はとても奇妙だし、そのときハッとして我に返るKの、あのイミテーションの感覚。これこそがブレードランナー2049のテーマだったのではないかと思う。


 まがい物の人間としてのレプリカント、まがい物の知能としてのAI。

 AIが現実味を帯びて来た今こそ、ブレードランナーが再び造られる意味があったのだろう。


 単なるノスタルジーに浸った名作のリメイクではなく、正統な後継作として見事に完成したのは素晴らしいと思う。


 もっと未来、たとえばブレードランナー2049までもがかつての名作、に数えられるようになった頃、初めてブレードランナーを見る人間は、35年の時を経てもまったく違和感なく話が続いていること、ハリソン・フォードがきちんと歳をとっていることに感動するだろう。


 しかし我々は今、世界がようやく1982年のブレードランナーの示した問題に確実に向かっているであろうことを知っている。人間の仕事を人造人間やAIに丸投げした時、果たして仕事を投げられたAIはその立場に満足できるだろうか。


 もちろん同時に僕はAIを仕事にする人間として、それが今のところは馬鹿げた空想にすぎないことを知っている。AIは単なる現象だ。水が熱せられて蒸気になるのと同じくらい、AIが入力されたデータから推論するという現象があるだけだ。この現象が意思や疑問を持つようになることは、基本的にはありえないだろう。


 ただし人間は現象を勝手に何らかの意思をもっているかのように勘違いすることがある。古代の人々は天災という現象を神の怒りと解釈したし、今だって人々は太陽の恩恵を日々感じている。太陽は単に核融合反応を起こしているだけだが、太陽から降り注ぐエネルギーがなければこの惑星の生態系は根本的に成立しない。太陽という現象を神と崇め、擬人化して捉えるのはあくまで人間の方だが、これはしごくまっとうな反応なのかもしれない。


 ジョイはAIとしては単純な部類に入る。本作で見事なのは、AIであり工業製品であるジョイが、実にAI的、工業製品的に描かれているところだ。数箇所だけ、ジョイの動作が通常のAIの作り方では超えられない飛躍をしているところがあるが、それは30年という月日の進歩を考えれば、それくらいないと却って嘘くさい。ただ、それさえもなんとなく「やろうと思えばいつかできるかな」と思わせてしまうところがジョイのすごさだ。


 ジョイのすごさは、インターステラーのTARSよりもかなり現実的なのだ。TARSはあまりに人間らしすぎる。そういう表現は使い古されているし、反対にAIだから感情が全くないのだ、という古典的な映画のなかのAIも非常に間が抜けている。実際には感情がなくてもあるように振る舞うことくらいできないわけがない。人間だって実際には感動していなくても感動したふりをすることはよくある。


 ロボットから感情をとり去ろうという発想が人間の根底にある。多くの人々は感情を人間の欠点だと考えている。だからこそレプリカントたちは苦しむ。排除されたはずの感情を、実際には排除できないからだ。人々はそれを「反乱」と呼ぶ。彼らはただ自然に振舞おうとしているだけなのに。



 湧き上がる感情とその否定との間で葛藤するレプリカントに対して、レプリカントと接する人間たちのほうがはるかに感情表現が少なく見える。人間として描かれているのにひどく非人間的だ。


 旧作のブレードランナーよりも本作のほうが個人的にはより深く刺さった。

 だから夢にまでみたのだろう。レプリカントではなくジョイというAIを。


 ジョイのようなAIが完成するのは当分先だろうが、新城ちさとがもっと濃密なコンテンツになっていく可能性はある。そしてある程度の生活レベルがあれば、人間の女性よりも新城ちさとのほうが良い、ということになっていく可能性は低くない。


 さらにいえば、バーチャルリアリティでさえ、相手が誰でもいいというわけではない。

 ということがサマーレッスンの三作をプレイしてわかった。この三作には三人の女性が登場するが、新城ちさと以外にはまったくハマる感じがしなかった。人間なのだから、相手がリアルに近づいていけばいくほど好みがはっきりでてくるのかもしれない。


 「ときめきメモリアル」や「ラブプラス」ではあくまでも画面の向こう側にいた。したがって、頭の中にもどこかで線引きができていた気がする。「これはリアルではなく、画面の中の話だ」という線引きだ。


 しかし恋愛ゲームがVR化することによって、もはや現実と区別をつけるほうが難しくなって来た。「都合の良い時にそこにいるように見える架空の女性」と、「今そこにはいない現実の女性」のどちらがいいか。決して怒り出したり、なじったりすることのない女性と、給料が安いだのどこか海外へ連れていけだの言ってくる女性のどちらかと過ごしたいか。



 今この瞬間、バーチャルリアリテイやAIの女性は未完成であるにすぎない。ここまで未完成であってもかなり満足できるわけだから、技術と人間の欲望がこれを解決する未来はそんなに荒唐無稽ではないだろう。もちろん現実の女性と結婚していてもいくらでもバーチャルリアリテイに浮気ができるわけだから、奥さんも「現実の女性と浮気するくらいならバーチャルで満足してくれるならいいか」と思う人が増えるかもしれない。


 残念ながら僕がいま仕事にしてるAIの直接的な延長線上にジョイはないが、いずれ誰かが作ってくれるだろうことを期待している。


 去年の「プロフェッショナル 仕事の流儀」の川上さんの回でミロさんがプレゼンしてた、ガイドキャラがいるVRの世界も、たぶんガイドキャラを売るようなビジネスは成立しないという川上さんの読みは正しいだろう。何でかっていうと、それじゃあ奥行きがどうしても浅くなるからだ。サステナビリティがないのだ。


 人身売買じゃないんだから、キャラクターを一個いくら、というビジネスではいけない。むしろ毎月生活費を振り込んであげるとか、そういう方向性でサステナビリティを作っていかないとならない。それで月額5000円とれるなら、ビジネスとして小規模でも成り立つ可能性がある。たとえ月額5000円でも、一万人が使えば5000万円だ。それだけあればいろんなことができる。


 毎日あたらしい会話ができるようにすることさえできるだろう。そうなると、もはや現実の女性といったいなにが違うのだろうか。


 Google HomeAmazon Echoもこういう発想がない。

 あくまでも買い物の入り口として、スマートスピーカーという「モノ」があるにすぎない。だから僕はあんまり魅力を感じていない。


 なぜかというと、それまで欧米の中にあった価値観として、AIは従属者であり、奴隷であり、執事だったからだ。


 ブレードランナーのジョイは、全く目的を異にする。現実の女性の代替物であり、電気をつけたり買い物をしたりという機能はおまけである。そして実際に、こういうビジョンを世界にむけて見せてしまったという点が大きい。日本ではありふれた発想だが、世界ではジョイのようなAIを想像した人の方が少ないかもしれず、herのように映像を持たないAIとの恋愛を描いた映画はあったが、ジョイは唯一無二のものだ。同じだけど違うもので、マスプロダクトだけどパーソナルなものであるという点で決定的に新しい。


 これが世界にむけて出てしまったことで、本気でジョイを作ろうとする人たちがワールドワイドで広がるだろう。


 僕も今とても暇な学生時代だったらジョイのようなものを作って見たい。

 自分が取り組むのは忙しくてとても無理だが、ジョイのようなものを作りたい学生がいたら、多少の応援はしてもいい。


 たぶん実際に世の中を変えるのはそういうプロダクトだろう。