THE長文日記

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量子力学的恋愛論

 人間の心理は複雑に見える。

 が、実はぜんぜん複雑じゃなかったとしたらどうだろうか。


 天動説の頃、惑星は複雑な動きをしているように見えた。

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 なぜこんな複雑な動きをする星があるのか、当時の科学者たちは首を傾げた。

 惑う星、だから惑星と名付けられた。


 しかし実際にはそれは考える前提が間違っていた。

 観測点である地球が、そもそも動いていたのである。


 そう考えたコペルニクスは、太陽の周りを地球を含む惑星が回っているというシンプルなモデルを提案したが、黙殺された。


 この提案を支持したガリレオ・ガリレイも宗教裁判にかけられることになった。



 複雑に見えるものを「あれは複雑だから良いのだ」と有難がる人々に対して「実はこんな単純なことなんだよ」と説明するとヒステリックな拒絶反応が来る。


 ノーベル賞物理学者のリチャード・ファインマンは、マクスウェルの方程式を解いた時に不思議な状態をとることを発見した。

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 この波動関数ψの、前項はその時点における過去からの蓄積による波動エネルギーを意味している。過去から現在に向かって流れる時間軸のエネルギーだ。これを遅延波と呼ぶ。


 しかし、これだけだとどうしてもエネルギーが半分しかないことになって計算が合わない。そこで後ろの項が必要になる。遅延波に比べ逆向きの成分を持っている。過去から現在へやってきたエネルギーの蓄積ではなく、未来から現在へやってきたエネルギーであり、ファインマンとホイーラーはこれを先進波(または先行波)と名づけた。


 ただし古典物理の世界では因果律は絶対の前提なので、ファインマンらは先進波はなんらかの相互作用で相殺され、通常の物理学では遅延波のみを用いる、と無理やり結論づけた。


 仮にこれが未来から来たエネルギーだとしたら、因果律に反することになる。


 しかしファインマンの死後、因果律の崩壊した世界が存在するかもしれないことが認められつつある。


 因果律、つまり、過去の蓄積こそが未来を決定するという考え方で、これは物理的・観測的事実と言うよりもそうであるはずだ、そう思いたいという人間の信念に由来していると思われる。


 我々は因果律の通用しない世界を身近に知っている。

 人間の思考や心理だ。


 人間の思考が因果律に必ずしも依存していないということを声高に主張すれば、気がふれたと思われるだろう。


 しかし、たとえば受動意識仮説というものがある。

 これは、人間は自分がそれと意識するよりも先に身体が動いており、動いた身体を意識して後付で自分はそのようにしたかったのだと解釈するという古典的な心理実験の解釈のひとつだ。


 受動意識仮説を支持する人は少なくない。


 これは、いわば未来から来た意識を読み取って身体が反応している、とも言える。

 「こうしたい」と思うよりも先に身体が動いている事実をどのように理解するか。


 「意識した」という瞬間よりも先に身体を動かそうとするのだ。

 仮に我々が「意識」と呼んでいるものが、言語化されたハッキリとした「意志」のことだとすると、意志よりも速く判断し、身体を動かす基点になっている「無意識」が存在しているはずである。そして「意識」は常に「無意識」の奴隷なのだとすれば、確かに因果律は崩壊しない。


 多くの科学者がそれを苦手とし、あまり深く仕事と結びつけて考えない話題のひとつに、恋愛がある。


 科学者で恋愛に対して器用な人物は非常に珍しい。ファインマンはその一人と言えるかもしれない。


 たとえばアメリカの人気ドラマ「ビッグバン・セオリー」は科学者四人組とウェイトレスのペニーが繰り広げるナンセンスコメディだ。そのナンセンス感の最たるものが、理論物理学者のシェルドンの言動だ。彼は極端に女性に対して興味が無い。どれだけ誘惑されても、潔癖症もあいまって女性に触れようとはしないし理解する努力もほとんど見せない。ほとんど非人間的なまでに性欲というものと無縁なのだ。これがアメリカ人の考える物理学者のステレオタイプだとしたら、実際にはそんな人間はほとんどいないけれども、他の登場人物も決して恋愛上手とは言えない。


 恋愛と科学になんの関係が? 


 と、思うかもしれないが、人間の心理状態は、後付でいくらでも変わりうる。


 ずっと以前、このブログで「幸福か、不幸かをどのように判断するか」という話題を書いたことがある。


 今の自分は幸福なのか、不幸なのか、ということだ。


 現時点での僕の仮説は、「現在の自分が幸福か不幸かはそれを考えた瞬間に決定する」というものだ。もしくはこう言い換えてもいい。「時刻t1の自分の幸福度は、観測した時点t2に決定する」


 どういうことか。

 例えば、一昨日の夜、すごく美味しいステーキを食べた。この時点ではステーキは本当に美味しくて、感動すらするものだった。一昨日の夜を時刻t1とし、この時、自分の幸福度を図った、つまりt1=t2の時は人生で最高レベルの幸福、仮に100とすれば、幸福度100を感じていた。


 それから24時間も立たずに、すごく美味しいやきとんを食べた。

 このやきとんを食べた時刻をt2とすると、t2において、ステーキを食べた時点(t1)の幸福度を顧みるとt1は人生最高ではない、幸福度90だった。


 過去を振り返った時点(t2)で過去の時刻(この場合t1)の値打ちが変動するのである。

 また何週間かすればt1の幸福度は上がっているかもしれない。


 しかし人間が、例えば言葉としてその事象を「確定」してしまうと、人間の心理に存在する正常性バイアスが発生し、実際には幸福ではない状態を「幸福であった」と無理やり結論づけようとする。ちょうど、天動説の時代にコペルニクスガリレオが迫害されたように。



 しかし実際には、過去の思考は意見として表明もしくは意識して言語化することがなければ、どの時点でも変化させることができる。


 この現象が最も強く観測されやすいのは、恋愛である。


 たとえば、メロドラマによくありがちな展開は、異性の幼馴染と一緒に育っていくが、成長してやがて理想とも思える異性に知り合い、そのとき幼馴染と新しく出会った異性のどちらを選択するか初めて意識する、というようなものだ。


 この話はありふれている。


 にも関わらず、この時にどのような心理状態をとるか真面目に研究している人は少ない。

 唯一、この種の話題を研究している分野が、文学だ。ただし文学は科学ではない。


 このときの幼馴染の振る舞いは、たいていは不可解なものになる。

 そして新しく知り合った異性の振る舞いは、たいていは戸惑いを感じつつ好意があるのかないのか、ハッキリと意識する前に惹かれ合っているが、やはり不可解なものである。


 おじさんたちには「きまぐれオレンジロード」を思い浮かべていただきたい。

 もう少しヤングなピーポーは「いちご100%」でもいい。


 主人公の前に現れる二人の美少女、性格もルックスも正反対。片方は追いかけて来て、片方は少し距離をとった状態で見ている。彼らの振る舞いはスラップティック的であり、ほんのすこしのすれ違いが決定的なものになったりする。惹かれ合っては反発し、反発しては惹かれ合う。まるでダンスのように、三人の心は揺れ動く。



 まさに三体問題による複雑系だ。

 しかし恋愛も量子力学的なものであると考えれば、この問題は非常に単純なことだと解釈できる。


 振る舞いは複雑だが、原理は単純、ということだ。


 彼らは「意識の迷宮」のなかを彷徨う旅人だ。

 観測者キョースケがある瞬間に何かを意識する、たとえば鮎川キレイだなとか、ヒカルちゃん可愛いなとか。


 そのプラスの感情は、意識した瞬間にキョースケの意識空間の中で実体化する。

 記号化された二人の美少女は、少年の中で「恋愛の確率雲」に取り込まれる。


 それから物語は動き始め、鮎川の中でもヒカルちゃんの中でもそれぞれキョースケがマッピングされ、恋愛の確率雲ができあがる。


 どちらを選ぶべきか、キョースケは葛藤して、最終的な選択を行う。

 この選択というのは、いわば確率雲を観測して自分の本当の気持ちはなにかを探ろうとする行為だ。


 しかしその観測結果は、毎日毎日猫の目のように変わる。


 ヒカルちゃんの愛らしさ、鮎川のセクシーさ、そのどちらかひとつを選ばなければならないという前提がキョースケを惑わせ、そして結果的に、どちらともボーイフレンドにならない、友達以上恋人未満のようなだらしないつきあいかたをしていくことになる。


 まあこれがとっとと告白してポーイフレンドになってしまったら、物語はそこで終わってしまうので連載の都合上、キョースケが煮え切らない男になってしまっているのだが、それはまた別の話。



 実際の恋愛はここまでドラマチックにはならないが、たいていの人間は恋愛でいくつかの失敗を経験する。

 

 「この人が好きかもしれない」「一生愛していこう」と思ったとしても、実際にそれがまっとうできることは少ない。


 したがって、それを繰り返せば繰り返すほど恋愛に対して冷めた人間になっていく。


 同時に、言葉がどんどん薄っぺらいものに感じられていく。

 観測を繰り返すことで顕在化した意識という自分の気持ちというものが、たいして大きな意味を持たないことに気がついてしまう。


 最終的に、結婚相手を直感ではなく理性で選ぶようになる。



 それどころか、結婚というのは非常に意識的なことだけれども、もっと手前、恋人関係になりうるかどうかというところでさえも意識は揺らいでいる。


 ある時点で、こんな相談を受けた。


 「○○さんのことが気になって夜も眠れません」


 彼女の話を聞くと、どう考えても○○氏に惚れている。

 嫌いなのに憎めない、一緒にいると辛い。けど離れたくない。じゃあ付き合ってみればいいんじゃないの?と聞くと


 「うーん、そういう感情とはちょっと違うんですよ」


 という顔に嘘は見られない。よくわからんな。

 それから数ヶ月経ったら、その子が○○さんと結婚したと聞いた。

 そういう感情じゃなかったんじゃないのかよ。

 久しぶりに会った時にそうツッコミを入れると


 「初めて会った時に一目惚れして・・・」


 ま、よくある話だ。

 だがこれはまさに因果律の崩壊である。


 真実はどこにもない。わからないし、彼女が意図的に否定したのかもしれないし、本当にそういう感情じゃないと思っていたのかもしれないし、ありうるのは、恋愛関係に発展するかもしれないという確率雲のなかで、何かがうまい具合に噛み合って「最初から好きだった」と解釈するのが一番しっくりくる、という観測点を見つけたのだろう。


 女は狡いとかわけがわからないとかという話ではなく、我々から見たら彼女たちの心理は確率雲にすぎない、ということだ。我々は彼女たちの波動方程式を解き明かし、波動関数ψを探しださなくてはならない。


 生物学的に見て魅力のある男性と結婚する。


 結局、ただしイケメンに限る、ということなのだ。


 吉岡さんが量子マーケティングとか意味わかんない、といっていたので量子力学と心理学について僕が常日頃思っていたことを書いてみた。

量子力学を応用した、未来のマーケティングシステム「Scanamind」(スキャナマインド)|WIRED.jp

http://wired.jp/2014/12/15/scanamind/


 ちなみに量子物理学者パウリと心理学者ユングの共著もあり面白い。量子力学と心理学はかなり密接にアイデアの交換をしていたようなフシがあるのだ

自然現象と心の構造―非因果的連関の原理

自然現象と心の構造―非因果的連関の原理