THE長文日記

長文とか短文とかのクレームは一切受け付けません

高速道路走行中にエンジンがオーバーヒートした場合に死なない方法

 ちょいと長岡まで遊びに行った帰り道。

 なんだか水温が見たこと無いくらい上がってる。


 先週ディーラーで車検して、少なくない金を払ってメンテしたというのにこれはどういうことだ。


 とりあえずガソリンスタンドかなんかに行ってプロの意見を聞くしかない。30kmくらい走ればガソリンスタンドがあった。


 ところが走り始めると120度くらいだった水温(冷却水は特殊な不凍液なので沸点は190度くらい)がぐんぐん上がって150度くらいになった。もうちょっとで高速の出口なので騙し騙しいけるかと思ったが、ついにはアクセルを踏んでもスピードが上がらないという危険な状態に。


 他の車が120km/hくらいでびゅんびゅん走る中、もはや動くパイロンと化した我が愛車F10。


 やむなく路肩に停車する。
 これは死ぬ


 長年自動車を運転してきたがこのケースは初めてで、まず落ち着くのが大変。
 いつトラックとかダンプとかに追突されて死ぬかわからない。


 とりあえずオンボードコンピュータに表示された緊急サービスに電話。


 すると「とりあえず警察に連絡してくれ」という。そこで110番。


 「とにかく危ないから車から降りて安全な場所にいけ」と言われ、全員で車外に脱出。


 これでひとまずの命の危険は去ったが、うっかりダンプとか乗用車とかが追突して誰かが怪我をしたりしたらと考えると行きた心地もしない。


 おまわりさんがやってきて、誘導に入ってくれる。


 「クリープ現象でもいいから動かせるなら高速出口まで行ってしまいましょう」


 パトカーとおまわりさんのサポートがあるので安心して車を動かすことができる。
 しばらく時間が経ったので水温が下がり、エンジンは少し回復していた。


 なんとか高速道路から出て、出口付近の駐車場にくるまを入れることができた。


 おまわりさんにお礼を言うと、ディーラーから電話がかかってきて、保険適用でレッカー車の手配と一日あたり一人二万円までの旅費、自動車が使えない期間のレンタカー代の保証が受けられることを聞いた。



 レッカーがくるまで暇だったし、水温も下がっていたのでためして冷却液タンクをあけたらスッカラカン。


 とりあえず応急処置として2リットルの水を入れてみると床下からドバーッと盛大に漏れてる。よくこれで走ってたもんだ。


 おそらく冷却タンクのパイプかなにかが外れたんだろうが、最近の自動車はエンジンルームをいじりにくく作ってる。ディーラーに任せるのが良かろう。


 それで湯沢までタクシーに乗り、新幹線で帰った。


 数日してディーラーから案の定パイプが外れてたという報告が入った。それ自体はすぐ治るが、念の為走行試験をしてから返してくれるという。それはぜひやってもらいたいので来週まで待つことにした。


 いやーしかし、生きててよかった。それに尽きる。
 そしてやはり保険は一番高いものに入るに限る。

最近の地球をとりあえずぐるっとやってきて思ったこと

バンクーバーでは風邪を引いて、サンフランでは人気寿司店で出てきた偽の久保田に腹を立て、テキサスでは旧友と親交を温め、まあテキサス大学と打ち合わせしたりして、ボストンではMIT詣でをして、ニューヨークでは物件を探し、ロンドンでは大英博物館で髑髏水晶をみたりシャーロック・ホームズ博物館に行ったりして、パリではオルセーでガレとアール・ヌーヴォーの作品を鑑賞して世界で最も尊敬するジャパニーズバーベキューシェフと飯を食い、ブルゴーニュまで足を伸ばして坪単価の最も高い作物であるロマネ・コンティのぶどう畑の収穫に立ち会い、リンツではアートとテクノロジーについて考え、アブダビでは石油の掘り方と砂漠での暮らしを体験して、ムンバイではカレーを食べて、そして東京でDMMとチームラボの作った作品群に触れた。


まあこれで地球を全部見た、とは到底言えないが、長いようで居てあっという間の一ヶ月。
いろいろ思うところがあった。


まず、シリコンバレー含めて世界中、いまから東京が追いつけないような現実などどこにもないこと。ネットしかみていないとこの事実はわからない。


確かに学会などに行くと研究者の数では日本は欧米や中国に比べて小粒なのは間違いないが、実は日本の研究者は質が飛び抜けている。


というか日本の研究者はトップエンドが飛びすぎていて生半可な実績では一人前と認めてもらえない。
東京にたいていのものがあるので「わざわざ海外にいかなくても」という意識が強い。これが要は国際学会へ参加するモチベーションが低い理由だ。


日本以外の国はとにかく広い。たとえ国内学会であっても移動時間は6時間以上かかることが普通であり、必然的に国際学会に参加するのとあまり変わらなくなる。


ヨーロッパに至っては逆にひとつの国が狭すぎて、必然的にパリやロンドンやバルセロナに集まると国際学会になってしまう。


その御蔭で英語が磨かれたり国際的な人脈ができたりといった余録があるのだが、逆に言えばそれだけである。


この背景を無視してことさらに中国脅威論やGAFA最強論を論じても生産性がない。
しゃあないじゃん。俺たち日本人なんだからさー。


AIという、かなりざっくりしたくくりで見ても東京の知性密度は世界的に未だ持って異常な高密度であり、世界最大の都市である東京が、地価が高騰しすぎてアパートを追い出されてホームレス化した白人で道が埋め尽くされているサンフランシスコやシリコンバレーに劣る道理がない。


日本で生まれた人にとっておよそ東京ほど居心地の良い場所はないのではないか。


いまもって有効な利用方法が確立していないAI関連分野で特に重要なのは、テーマの多様性であり、多様なテーマに対してAIを適用していくことによってしか得られない知見をいかに蓄積していくか、これに尽きる。


僕が今回訪問した、名だたる世界のAIベンチャーや研究所がもっとも多く悩んでいたのはまさしくこの点であった。


彼らには知識と技術があるのだが、顧客が居ない。顧客接点をもっておらず、要は宝の持ち腐れになっている。
そして当然、彼らの尖った技術を使いこなす顧客の方にも相応の知識と技術が要求される。


並大抵の顧客、つまりほとんどすべての顧客、とりわけAIを活用できる大半のエスタブリッシュメントにとって、AIベンチャーと会話することは非常なストレスになる。結果、彼らの技術を活かせるチャンスを失い、安っぽいPoCを繰り返して「ふーん」と納得する程度のレポートが上がってくれば御の字、という体たらくだ。


今回話を聞きに行ったそうした企業や研究者は、誰もが我々の話を聞いて目の色を変えた。
我々の強みは銀行や保険会社や建設業、小売業といったエスタブリッシュメントの顧客を多数抱え、実際に彼らの問題解決を行っているということである。


これは東京の密度があるからこそ実現可能なことだ。つまり世界最高水準のメガバンクや保険会社、製造メーカーや建設・建築会社のヘッドクォーターと、国内最高水準の大学が密集しているからこそできるのである。


以前から東京の知性密度の高さには注目してきたが、AIの時代になるとこんどは単なる知性の高さだけではなく、経済密度とでもいうべき指標が高いほうがその都市は発展できる。


世界大学ランキングで東大がいかに低かろうと、東大で生み出される研究成果は、実際的に世界を変えてきたものだし、特にコンピュータの分野では最先端を行っている。その他の東京圏の大学も同様で、日本人はこれを誇って良い。むしろ問題はそうした研究室の数と定員が少ないことで、優秀な一線級の人材を取りこぼしている可能性について考えるべきだろう。


アメリカで同じことをやろうと思ったら、ニューヨークとボストンとシリコンバレーで人をどうマネジメントするかかなり真剣に考えなければならない。もちろんそれを解決するためのフランチャイズシステムが確立しているところがアメリカの強みだが、同時にそれは弱点でもあり得る。結局のところ世界最強のフランチャイズシステムを発明したのがイトーヨーカドーだったのも、やはり東京の密度が関係しているはずだ。



AIに関わる人間を東京はもっと増やすべきだ。いや、東京に限らず全国的に増やすべきである。
AIというくくりではなく、コンピュータに関わる人を増やすべき、という言い方でも良い。それくらい、この2つは密接な概念であると同時にほとんど同じ概念である。


1950年代、人工知能とはコンピュータのことそのものを指していた。
この時代、まだいわゆるビットマップディスプレイは発明されていない。サザランドがそれを発表するのは1960年代のことだ。


とすると、この時代の人々の想像力は、自然と物いわぬ機械の「思考能力」に向かざるを得ない。
だから AI研究が盛んになった。ディスプレイというものが存在しない時代のコンピュータについて少し想像すればわかるが、これが何者なのか誰にもわからなかった。だからひとびとは一所懸命に機械に計算させたり、言葉を教えたりしてなんとか意味のあるものが作れないか苦労した。


ところがサザランドがディスプレイを発明し、その可能性を示すと、人々は一気にそれに目を奪われた。視覚というものがいかに人間の興味を引きやすいかということの証明でもある。


サザランドを起点とした系譜は「コンピュータグラフィックス」と呼ばれ、今日のVRやiPhoneに至るまで、人々はサザランドの示した道から想像力の幅を広げ、現在の世界を作った。


サザランドは意図的にAIを研究テーマから排除した。なぜならそれは「AIとは違うコンピュータの活用方法の研究」として出発したからであり、一方で視覚的説得力に乏しいAIはなんども廃れて何度も復活するということを繰り返した。


そしてサザランドのビジョンがほとんど全部実現されたとき、業界は行き詰まった。もう実現すべきアイデアがない。
その苦肉の策がAIの復活である。


SiriにしろGoogleアシスタントにしろ、そういう理由から取り入れられた。しかしもともと異質なこの2つのものは、進化が数十年前に止まったままのものだ。だから使いにくいし、イマイチ何の役に立つのかもわからず、たえず人をイライラさせるだけのものになっている。そしてスマートスピーカーにはやはりディスプレイがない。まさしくコンピュータグラフィックの対極的な存在であることを暗示するかのようだ。


今こそ人々はコンピュータについてもっと深く多様な視点から考えるべきであり、21世紀のサザランド(まだ存命だが)を探すか、目指すかしなければならない。


現在、われわれがパソコンまたはスマートフォンと呼んでいるものは、主にコンピュータグラフィックスの成果である。


サーバと呼ぶものは、ある意味で人工知能の成果と呼んでもいいかもしれない。arduinoももしかするとそう。


この2つは全く異質なものであって、もっと溶け合うか、それとも全く異質な進化を遂げるか、とにかく同じ機械に同居するべきものかどうかという点にまで立ち戻って、いまいちどその意義、あるべき姿を考える必要がある。


面白い時代に生まれてきたじゃねーの

月に七本の連載は無謀

Engadgetが「今月は七本でお願いします」みたいな無謀なことをカジュアルに言ってきてキレた。


七本て


自分で書いてみろ


週に二本ペースだぞ。売れっ子漫画かよ!
しかもエンガジェットの場合は写真必須。
全くテーマと関係ない写真掲載するわけにもいかないしそんなにネタがあるわけねえだろ。


七本ぶんのガジェットを買えるような原稿料が出るわけでもなし


エンガジェットの原稿料がどれくらい安いかと言うと、七本書いても、ぜんぜん更新してないこのブログのアフィリエイトより安い。ライターの扱いが低すぎる。


むしろどっちかっていうと、親友の矢崎飛鳥が編集長になったのでご祝儀のつもりで自分のブログに掲載したらもっと伸びそうな記事もエンガジェットに載せてきた。


にもかかわらず相談もなく一方的に通告されたので、ここはキレとかないとおかしいだろと思った。特に松村という編集者はなにか重大な勘違いしているとしか思えない。


きょうび、編集なんて仕事はちっとも偉くない。
ほんとうにデキる編集と、単にメディアのコントロール側にいることにあぐらをかいてるだけの編集で差がついてくる。この差はもはや埋めようもないほど深刻なもので、松村みたいな著者を舐めきった編集がメディアの質をどんどん下げていってるんだろう。


特に最近はライターだけで食っていくのは不可能に近いほど難しくなっている。
エンガジェットのライターもほとんどは兼業だ。


食わせてもらってるわけでもないのに失礼な態度を繰り返しされて一度も謝罪もせず毎月失礼なメールをしてくる編集者のほうが記事を書く主役であるライターよりも高い給料(さすがに食っていけるだけはもらっているだろう)なのは納得がいかない。


そりゃ無理やり書けば七本、かけなくはないと思うよ。でも僕の読者が傷つくじゃん。
粗製乱造されたものを清水の記事だと思って読んだ読者が可愛そう。


編集者によっては、著者をまるで人間扱いしない人がほんとにいる。
著者の固定客をあてにしてるくせに、著者のブランド、要は質的水準を守ろうとしない編集はほんとにいる。書店には残念ながらそういう粗製乱造された本もたくさん並んでいる。ほとんど同じような内容でおなじような著者に量産させたような本を作ってる編集は、どういう生き方をしてるんだろう。ご両親もさぞかし誇らしいことだろう。読者をバカにし、著者も馬鹿にしてるのだ。


そういう人と作る本はだいたいポシャるか、出たとしてもろくな本にならない。そういう手合とはもう二度と仕事しない、と思う。


矢崎がいなければエンガジェットの記事はゼロにしたいところだが、矢崎がいるからしかたなくたまには書く。書くけど本数は絶対七本は書けないよ。そんなに面白いネタないよ。


という内容をエンガジェットに書こうとしたが、松村にボツられる可能性大なので自分のブログに書く。


エンガジェットって信じられないことにノルマがあるのに原稿がボツられる。
他にもいくつか連載持ってるけどまるごとボツる媒体はエンガジェットしかない。ライターの苦労とか思いとかまるごと無視。理由も告げられない。また、公開されても連絡もなし。マシーンか!


そのくせ毎月請求書を出さないと原稿料が振り込まれない。そんな媒体みたことない。おれが毎月しこしこ自分で請求書を書いてる。おれの時給を払ってほしい。


アシスタントを使えばいいと思うかもしれないが原稿料が安すぎてアシスタントも雇えない。会社の秘書にやらせるわけにもいかないし


昔に比べて情報発信のハードルは下がってるし、ブログ媒体の価値なんか個人ブログより低くて当たり前の時代。


殿様気取りの編集が仕切ってる泡沫メディアが凋落していくのも道理。

アートという「逃げ道」

日本でエンちゃんとAI師匠が公共の電波に乗っている頃(Youtubeでも見れます)、俺は機内にいた。


本当はエジプトのカイロかドイツのベルリンに行く予定だったのだが、予定を変更して10何年ぶりにオーストリアのリンツに行くことにした。


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なぜなら、面白そうだったからである。


先月訪れたMITの石井先生が「最近アルスに毎回行ってるんだよねー」という話をしていて、え、石井先生が?毎回?ということで興味が出た。


「アルス」とは、言うまでもなく、「Ars Electronica(アルスエレクトロニカ)」というイベントである。


電気を使った芸術祭であり、毎年10万人が来訪する。


リンツは、有名な人がアドルフ・ヒトラーくらいしかいない街であり、町としてはそれはどちらかというとあまりありがたくない郷土の有名人であり、どうにかしたい、というモチベーションから音楽祭が始まり、音楽祭の連動イベントとして、電子芸術を扱うArs Electronicaが生まれた。


細かい内容や感想はニコニコチャンネルでやるとして、結論としては感動した。


特にラストの和田さんのコンサートが素晴らしくて、ああほんとうに、なんていうことだ。素晴らしい、という言葉の上を行く言葉が見当たらない。アンコールの声が流れて「いや、別に他の曲用意してなかったんですよね」といいつつも即興で行われるアンコールまで含めて素晴らしかった。感動した。


会場で石井先生とはぐれてしまい、ウロウロしていると東大の池上先生と鉢合わせした。


池上先生といえば、ご存知、人工生命のパイオニアである。
最近上梓されたこの本も素晴らしい。


作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門

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  • 作者: 岡瑞起,池上高志,ドミニク・チェン,青木竜太,丸山典宏
  • 出版社/メーカー: オライリージャパン
  • 発売日: 2018/07/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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池上先生を中心に4人で飲んでいて、こんな話になった。


「清水さんはアートのこと好きだよね?」


「えっ!?」


どうだろう。おれはアートが好きなんだろうか。
そうでもない気もするし、そうでもなくない気もする。


ぜんぶのアートがわかるわけではないけれども、ときどきグッと心を掴まれるアートがあることは理解できる、くらいの理解である。


というか今回、アルスエレクトロニカに久しぶりにやってきて、石井先生の研究がまるごとアルスエレクトロニカセンターに常設展示されているのを見て度肝を抜かれた。


確かにあれはアート的であるが、実際には大真面目にコンピューティングのど真ん中を志向した研究である。それが「アート」の文脈で扱われてしまうことの恐ろしさと面白さを同時に感じたときだった。


今回、特に感じたのは、フィロソフィの大切さだ。
思想と言ってもいい。


世の中には器用な人や賢い人はごまんと居る。
しかし確たる思想やフィロソフィを持った人はそうそう居ない。


この2つの違いはなにか。
僕が言うとなんだか奇妙だけれども、「賢い人」には複数の指標があると思う。それは学歴や偏差値、IQといったもので測れる(と信じられている)ものだ。


逆に言えば「賢い人」はその賢さの評価尺度を他者に委ねている。つまりその思想は基本的には借り物である。


反対に、フィロソフィを持つ人というのは、基本的に誰かの尺度というものを気にしない。興味がない。ないといいつつあるのだが、行動原理のレベルにおいては、他者からの評価を顧みたりはしない。基本的には自分の評価は自分が下す。


厄介なのは、独自のフィロソフィを持っていると思い込んでいるだけの人で、それはルサンチマンから発生して、いわゆる「賢い人」が評価される評価尺度で評価されなかったことや学歴社会からドロップアウトしたことの反動として、酸っぱい葡萄理論を駆使するためのフィロソフィを構築する場合である。


本当に正しいフィロソフィを持っている人と、単なるルサンチマンをフィロソフィと主張する人の違いを認識するのはとてもむずかしい。唯一方法があるとすれば、長い時間をかけてその人の言動を追いかけるしかない。


真のフィロソフィを持っている人にとって、ひとつの逃げ道として「アート」があるのだ、と僕は思う。


「アーティストになろう」と思ってフィロソフィを構築するのとは意味が違う。


たとえば河口洋一郎先生という人がいる。
彼の作品を見ても、最初はわけがわからない。


しかし繰り返し繰り返し同じモチーフを手を変え品を変えやっていくうちに、彼がある種の偏執的な哲学に基づいてそれを構築しようとしていることがわかる。


会場でも、日本人の研究者たちが集まって、改めて「河口洋一郎先生は凄い」という話になった。


「なんで?なんのために?」という疑問に答えず、とりあえず「自分が面白いと思ったから(=フィロソフィ)やってみた」という作品を文明が許容し、理解するための逃げ道がアートなのだと、今は解釈している。


でなければ全く、わからないからだ。
アートという逃げ道がないと、普通の人との接点がなさすぎるのだ。



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たとえばこんな金属片がバーンと会場に飾られている。


「なんじゃこりゃ」と思う。この時点で普通の人は、これを「アートだ」と言われれば納得できるが、「製品だ」と言われると納得できない。


これは3Dプリンタで作った橋の一部らしいのだが、それも説明を読まないとわからない(その時点で僕は失敗作ではないかと思うのだが、アートの世界では文章による補足説明は認められている)。


コレを作った人に、将来建設業で一旗揚げようとか、そういう野心は感じられない。


ただ「やれそうだからやった」「面白そうだから作った」のである。
これを、10年継続できたら、それは立派なアートになるのではないか。


身近なアーティストに、八谷和彦さんがいる。
親友だと思っているので敢えていうが、彼は気が狂っていると思う。


ポストペットはまだいい。商業的にも成功した。しかしジェットボードと宇宙ロケット、そしてメーヴェ、特にメーヴェは、狂気というしかない。


ものすごく狂ったことをやってるのに、話をするとすごくまとも。しかもどう考えても儲からないであろうこと(=メーヴェ)に10年の歳月と1億円以上の資産を投じることができる。これはもうアートとしか理解しようがない。


誰も彼に「メーヴェを作ってくれ」とは頼んでないのだ。
彼自身も「メーヴェを作って金儲けしよう」という意図はまったくない。


むしろどちらかというとメーヴェを作るために金が必要なのであり、だからクラウドファンディングを行うのだ。


石井先生はたびたび僕らに「それをやってしまうとaestheticが失われる」とかたった。「それ」は、形状だったりテーマだったり、いろいろだが、石井先生本人はアート作品を作ろうとして研究しているわけではないのだ。ただ彼が生涯をかけて挑んだことが、客観的にはアートに見えてしまうだけである。というか、アートとしてしかまだ理解できないだけだ、とも言える。


おそらくチャールズ・バベッジが階差機関を作ろうとしたときも、周囲からは実用的な機械と見做されず「アート」のように見えただろう。


考えてみれば、アカデミズムとアートはかなり近しい位置にあるのである。
どちらも周囲から理解不能にも思える情熱を特定の領域に注ぎ込み、論文なり作品なりの形で表現して見せることで、そのものの対価とは別の活動費を国やパトロンから集め、作品制作を繰り返す。


そこいくと、池上先生の専門分野である人工生命(ALIFE)というのは、僕自身が「アート」というものがなんなのか理解する助けとしては大いに役立つことになる。


この分野では大きな流れは「セルオートマトン」と「マルチエージェントシステム」という2つの領域である。


まあセルオートマトンも、マルチエージェントシステムの一種と捉えることもできるので、一緒にしてもいいのだが、セルオートマトンは構造上、通じ用のマルチエージェントシステムでは表現できないaestheticがあるので別物と捉えたほうがいい。


セルオートマトンを考えたのはアーテストではなく数学者だ。
しかし、その振る舞いは極めてアーティスティックである。



僕自身、セルオートマトンに心を奪われた者の一人だ。
中学の頃は自作のセルオートマトンで夏休みの美術の宿題を済ませた。


なんとかこれを仕事にできないか、と何十年も考えているが、まだ難しい。いまのところこれをビジネス化して最も成功した例はシムシティくらいしか思いつかない。シムシティでは地下や公害がセルオートマトンで表現されている。


人工生命は面白いのになかなか金にならない。
だから予算を獲得する逃げ道としては、「これはアートなのだ」という説明が通用するならば使うほうがいいに決まっている。


あくまでも出発点は「心の奥底からやりたいと思うこと」であり、それがどうしようもなくとめどなく溢れ出てしまう状態がまずあって、マネタイズの明確な手段が見つかってない段階が「アート」なのである。


そういえば八谷さんがたくさんのユーザーの日記を集めたメガ日記というサービスをやっていたとき、まだ世の中にブログというものは存在していなかった。


日記を書いて公開するためにお金を払う人がいるとは夢にも思えなかった時代である。ネットにおける広告ビジネスもまだ一般的ではなかった。


あの段階でメガ日記というのは確かにアートであり、それが実用的になったものがブログである。


そう考えると、実はこれからの企業はアートというものに対してもっと真摯に向き合うべきではないかと思わなくもない。少なくとも企業における先端研究というのは、一種のアートでなければならないかもしれないし、もしかすると、社内でアートを研究したり発表したりするのではなく、世の中にあるアートをもっと深く理解することによって時代や人々が潜在的に求めているものを見出す洞察を得ることができるかもしれない。


アートというのはビジネスマンから遠い存在のように思っていたが、実はまるで逆で、ビジネスマンこそがアート的aestheticを持たなければならないのではないか。


そんな気がした

海外で暮らす日本人はどこかがおかしい、と彼は言った

 むかし、アメリカに移住する直前、サンフランシスコのベンチャーで働いている男性にこんなことを言われた。


 「日本でうまれた日本人は日本に住むのが一番快適なはずだ。それでも海外で暮らそうっていう日本人は、どっかおかしいんだよ。イっちゃってるか、ネジが2,3本抜けてるか、とにかくフツーじゃない。そして君もアメリカに移住しようなんて考えてるところが、そもそもフツーじゃないんだよ。こちら側の人間なんだよ」


 そのときは「えー、そんなことないんじゃないかな」と思っていたのだが、実際に移住してみてからジワジワとわかるようになった。


 まず、テレビがない。
 「いまどきテレビなんて見ないよー」と思うかもしれないが、僕が移住したのは16年前だ。NetflixもYoutubeもない時代である。


 テレビ放送そのものはあるが、日本語の放送は衛星でNHKを見ないといけない。1チャンネルである。民放がひとつしかない佐賀県・徳島県のさらに1/3しかチャンネルがないのである。


 「アメリカにいるんだから英語でテレビをみればいーじゃない」


 などとのんきに考えていた時期が僕にもありました。
 最初は面白がって見てたんだけど、結論から言うと無理。


 無理っつうか、もちろん見れるし意味がわかんなくもないんだけど、心の底から楽しいかというと微妙。特にコメディとかが難しい。結局、英語で見るのはニュースとスポーツになるが、もともとスポーツにそんなに興味がないからスクリーンセーバー以上のものにはならない。


 結果、楽しみが2ちゃんねるを見ることくらいになってしまい、ほとんど廃人のような生活になる。あと、当時はアメリカのマンションは日本よりも少し回線速度が遅かった。インターネットの普及が早すぎて光ファイバーより前にケーブルテレビのインターネットが普及していたのでマンション全体で1.5Mbpsとか、信じられないくらい遅かった。



 今回、久しぶりに丸一ヶ月海外をフラフラしてるわけだけど、毎日いろんなことが起きて忙しい。


 昔と比べて変わったのは日本のテレビをみようと思えばVPNとTVerで見れなくもないということ。Youtubeをみればいくらでも日本語番組が見れるということ。


 人や世代によるかもしれないが、これだけでだいぶアウェイ感というか、ホームシック感はなくなった気がした。


 次に食べ物についてだけど、これは実はガッツリ暮らすときにはあんまり困らない。


 大きな都市ならジャパンタウンみたいな場所があって、そこで日本の食材を買えるから、家でカレーでもトンカツでも作ればいい。


 もちろん職人の技が必要な高度な料理は難しいが、食べ物だけでホームシックになることは少ないかな。



 「暮らす」という視点で見ると、やっぱりパリは魅力的だ。


 今回、いろいろな都合と事情でパリに一週間くらい滞在しているんだけど、食べ物も探せば美味しい店はいくらでもあるし、なによりワインが安い。3ユーロくらいのワインでも全然美味しいし、たまに贅沢する気持ちで10ユーロくらいのワインを飲むと天国に行くような気分である。


 特にソムリエの友人の勧めで訪問したブルゴーニュ地方のボーヌという町は、「食の都」とも呼ばれる。インターネット回線さえ快適ならここに住むこともできるのではないか(美味いから)。


 実際日本人もけっこう住んでるらしい。


 まーでもどうかね。とはいえ東京の生活の快適さとは比べ物にならないかな。


 快適に暮らしたい、なら僕にとってベストの選択肢はやはり東京だろう。


 でも自分の世界を広げたい、という発想なら、快適さは犠牲にするしかない。


 そうすると全く別の視点で住む場所を選ぶことになるわけだ。確かにこういう思考に陥るのは「普通じゃない」状態なのかもなあ

3分間で気楽にプログラミングを学ぼう! 「ぷいプロ」公式ページOPEN!

 昨日も軽く告知しましたが、いよいよ今週日曜日から「ぷいプロ」こと「ちちんぷいぷいプログラミング」がスタートします。


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 果たして正味3分でアイドルにプログラミングを教えることができるか!?
 人類史上最大の挑戦が今始まる!?


 それに伴って地味な番組公式ページもスタートしたので告知しておきます。
 番組は、Youtubeでも視聴可能です。


www.puipro.com

地球一周あと7日

なーんかあっという間だったなあ


これまでも何度か地球をぐるぐる回ったり、ヨーロッパをあてどなく彷徨ったりとか、いろいろやってなくはなかったのだが、今回はやったことがないことに挑戦したり、会ったことがない人に会ったり、実際にそこで暮らす人の話を聞いたり、とにかくやることが多くて時間があっという間に過ぎていく。


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特に今回の視察で大きかったのは、ヨーロッパの農業について学べたこと。ブルゴーニュ地方を訪問して現地のぶどうの収穫に立ち会ったのは非常に大きな経験だったし、他にもロボットを使って農業改革をしようとしている研究者に話を聞いたりしたのも、思いのほか参考になった。


また、様々な研究者と話をしたが、ディープラーニングに関して、特段どこが傑出しているということもまだなく、この分野に関してはまさしく全世界的に今が発展の途上にあることを確信できた。


中国脅威論とかあるにはあるのだが、深層学習を現実の仕事に当てはめる、という部分の社会実装においては日本も欧米もまだそれほど深刻な差があるわけではないように思えた。


深層学習に関しては、あまりにも応用範囲が広い技術であるため、「深層学習は凄い」という言葉は「自動車は凄い」と言ってるのに近い。



たしかに凄いが、自動車を構成する部品には、エンジン、給排気系、シャーシ、タイヤ、エレクトロニクスなどがあり、「TensorFlowが凄い」とかはシャーシに相当する。「NVIDIAが凄い」はエンジンに相当すると言えるだろう。この世界ではアルゴリズムはエンジンを制御するECUみたいなもので、細かい差異はあるが車の性能を劇的に変化させるほどの変化は起こしにくい。意味がわからない人は湾岸ミッドナイトを読んでくれ(ジェッティングの富永)。


そこにくると今僕が思っている感覚としては「深層学習は中国が凄い」という言葉のひとつは、「ECUのエンジニアが10万人いる」みたいなもので、たしかに凄いのだが、そこに決定的な差別化要素があるか、というとそこまで怖いわけではない。


誤解を恐れずにいえば、深層学習のアルゴリズムを理解することはそんなに難しくない。どちらかというと場数が足りないから勘所を掴むのが難しいだけである。そのために必要なのは論文を読むことよりもむしろ実際にGPUを動かして勘を掴むところだろう



もし警戒すべきものがあるとしたら、自動車をどのような目的で作り、どこにどのように走らせるべきかを考える仕事、自動車でいったら「乗用車」「トラック」「バス」「除雪機」「トラクター」「ダンプカー」「ショベルカー」「ブルドーザー」のようなカテゴリーを考える仕事だったり、実際にそれを使って何らかのサービス、例えば「宅急便」とか「乗合自動車(バス)」とか「移動型店舗」とかを作り出すところに大勢の人が集まってあれこれ考える状態であり、中国には深層学習を使える人たちの絶対的人口が多いので、ここもすごくなる可能性がもちろん高いのだが、そこに関してはまだ目立った成果は見えないように思える。



反面、シリコンバレーのベンチャーのここ最近のいちばん目立つ成果が、電動キックボードのレンタルサービスや、人間をパシリとして使って近所の食べ物を届けさせるサービスだったりとか、およそハイテクを活用するというよりも、人間がハイテクに活用されるサービスがもっぱら注目を集めている。あれ?ローテクになってないか?


面白いことに、BIRDだのLimeSだのの電動キックボードのレンタルサービスはベイエリアでは法律で規制され、むしろオースティンとかの田舎にいくとみんなが大喜びで使っている逆転現象が起きている。遭遇率としてはだいたいセグウェイと同じくらいだ。


パリでもBIRDやLimeSがあちこちあるが、僕の感覚としてはパリの人口に対してLimeSの数が少なすぎるし、アプリを頼りに20分くらい歩いてLimeSにたどり着いても、肝心のLimeS本体が見つからなかったことが続けて二度あった。どうもひとつは専門学校の近くでロストしていたので、アホな学生が学内に持っていってしまったりしてるんだろうが、そういうモラルの欠如した世界ではそもそも性善説を前提とするシェアリングエコノミーとは相性が悪い。電動キックボードそのものはとても良いけれども、運用は難しいのではないかと感じた。


今回、誰に会っても、「ニューヨークに住め」と言われたが、今回まわった都市の中ではニューヨークこそ最も住みたくならない都市ナンバーワンであった。


ボストンからクルマで三時間くらいかけて移動して、最初にハイウェイを降りたあたりがハーレムという有名なスラム街のど真ん中だったこともあるが、とにかく危険と隣合わせすぎる。マンハッタンの南の方にいけば平和な空気が流れてなくもないが、テロとか犯罪とかを警戒して生きる人に敢えてなるというのは難しいのではないかと感じる。


テロや犯罪の危険、という意味ではロンドンでもパリでも同じ程度の緊張感がある。こっちの人たちは常に何らかの怒りを抱えた集団が闊歩していて、今日もパリの5区あたりで真っ昼間から半裸でブブゼラを鳴らしている輩に絡まれそうになったり、ルーブルでは朝っぱらからロマ族の一段に絡まれ、白昼堂々リュックを盗まれそうになってやむなく大声で威嚇するなど、緊張感と隣合わせの行程だった。


ボストンでもロンドンでも警官が日常的にサブマシンガンを携行していて、もはや拳銃の制圧力では無力だと思われている程度には危険度が高いのだな、と想像することしかできなかった。実際、去年もド派手なテロが起きてるし。パリでは今年の5月に無差別殺傷事件が起きてる。ちょうど滞在してるホテルのすぐそばだ。



全体として、ニューヨークは一番住みづらそうではあったが、英語の訛りへの寛容さという点ではニューヨークが一番であり、それは唯一僕でもなんとかやっていけそうだ、と感じられるポイントだった。ロンドンでは英国流の発音ができないとわざと聞いてないふりをされたり、パリではそもそもフランス語訛りの英語が聞き取りづらいのと、英語を喋ってくれる人がそもそも少ない(フランス人は伝統的にイギリスが嫌い)のに辟易した。


「ニューヨークかパリに住みなよ」と冗談のように言われていたのだが、なぜそんなことを言われたのか理解を深める機会にはなったと思う。


個人的には、家は住みやすいニュージャージーにしてオフィスをマンハッタンに構えるのが現実的な気もするが、現地の人たちの感覚がいまいちつかめない。それは埼玉の上尾あたりに住んで都内に通うみたいな感覚なのか。それとも神奈川県の川崎から都内に通う感覚なのか。まあどっちでもいいけど。


あと、今回いろいろな人と話しをして、一番大事だと思ったのはSF的教養である。
僕は昔SF作家になりたいと思っていた時期があって、SFは修行のようにずっと読んでいたのだが、そうしたことが実はとても重要だったことに今頃気づいた。


SFの多くは絵空事ではあるが、真実か、それに近いことがほんの少し以上は含まれていないとSF的作品とは見做されない。特に有名な小説や映画はそれが面白いとか面白くないとか以前に、見ておかないと会話ができない。スターウォーズはSFか、という話は置いておくとして、たとえば「ジャービスのようなAI」と言われて、ジャー・ジャー・ビンクスしか思いつかないのでは会話にならない。銀河ヒッチハイクガイドは、この世界におけるロミオとジュリエットのようなもので、アシモフのロボットシリーズや銀河帝国興亡史を読んでおくことは、arxivの論文を漁ることよりも時として重要な洞察を与えてくれる。


教養というとえらそうだが、要は「共有するイメージ」を持っているか、というのが話を何倍もらくにする。


「執事のように仕えてくれて、たまに小粋なジョークを飛ばすAI」という説明をせずに「ジャービスのようなAI」と説明したほうがずっと効率的にイメージを伝えることができる。


前者の説明だと「それはAlexaやSiriでいいのでは」という反論もあり得るが、「J.A.R.V.I.S.やTARS、KITTとAlexaやSiriやGoogleアシスタントの違い」はそれを知ってる人なら一発で理解できるイメージだ。


これを議論するだけでも価値がある。


この業界では、偉い人ほどSF作品を熟知している。
ニール・スティーブンスンのスノウ・クラッシュがなければ「メタヴァース」という言葉は理解されなかったし、キリスト教的(というよりもアブラハムの宗教的というべきか)イメージとコンピュータの基礎理論のイメージを重ねるというイメージも伝わりづらい。


特に人工知能という分野は、理論よりもむしろフィクションのテーマとして遥かな過去から繰り返し用いられてきたモチーフである。


それを知るメリットとして2つの側面がある。
第一に、SF的作品に登場する人工知能、またはそれに近しい知性体は、人間が抱く「理想のパートナー」を定義し、それが実際に理想的であるかどうかの思考実験の過程と見做すことができる。


たとえばアシモフの「ロボット三原則」はロボットの人工知能(作中では陽電子頭脳)に人間が求めるべき要件定義とその思考実験である。「ロボット三原則」に関しては「われはロボット」があまりにも有名であるが、この短編だけを読んでも「ロボット三原則」への考察は十分ではない。


アシモフのロボットシリーズを全て読み、銀河帝国興亡史を全て読み、最後にその2つを統合する「ロボットと地球」を読んで初めて「この三原則は役に立たないダメ原則だ」と類推することができる。もちろんどこがダメで、どこがそうでもないのかもわかる。


第二に、さまざまな作品に登場するさまざまな人工知能のイメージと、現実の人工知能技術を比較して、「あと何が足りないのか」を想像するきっかけになる。


現状の人工知能技術によって作られたものが、過去のSF作品のどの人工知能にも及ばないポンコツであることは関わっている人間には当然の事実である。


では一体、あとなにが足りないのか?
それを考えるのはとても大事なことで、「人々が求める理想の人工知能」の姿がSF作品で描かれているとしたら、「現状はどこまでできていて、どこからできていないのか」を現状との比較によって把握し、研究の方向性を決めることができる。


しかもこうしたSF作品の多くは、世界共通の話題として使うことができる。
もし自分のいいたいことを英語で上手く伝えられなかったら、「この映画を見てくれ」と説明することができる。それは千の言葉よりも雄弁にイメージを伝える武器になる。


逆に、SF作品を知らないと、相手の言ってることが理解できない。


あ、その意味では今度ひさびさにゲンロンカフェで「男たちのトニー・スターク」というイベントをやるんだけど、そもそもトニー・スタークを理解するためにはハワード・ヒューズとウォルト・ディズニーを理解しておかなければならないことを知らずに「アイアンマン」を見ても、その面白さは半分も理解できない、と思う。いや、逆でもいい。「アイアンマン」を見た後で、ハワード・ヒューズとウォルト・ディズニーについて調べるのでもいい。明らかにこの二人はトニー・スタークのモデルであり、ハワード・ヒューズはトニーの父、ハワード・スタークのモデルでもある(でなければ発明家で大金持ちで映画監督という設定になるわけがない)。


男たちが語るトニー・スターク – ゲンロンカフェ


アメリカでは国語の時間にSF小説を読ませられるそうだ。でも読んでる本人たちはSFを読んでるという感覚がない。あたりまえのものとして読んでいる。1984とか。ちょうど我々が平家物語の冒頭を暗唱するようなものだ(いまだにあれになんの意味があったのか理解するのはまだ難しい)。


だからアメリカを理解するにはSFを理解する必要がある、のではないかと思う。


告知ついでにもうひとつ。
既報の通り、今週から毎週日曜あさ9時55分から、BSフジとFNN.jpでプログラミングとAIの教育番組「ちちんぷいぷいプログラミング」がスタートする。


アイドルの小池美由さんとエンちゃんの掛け合いが楽しいのでぜひ。



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UEIとフジテレビ、子供向けプログラミング&AI教育番組「ちちんぷいぷいプログラミング」を制作 9月9日より毎週日曜日に全国放送決定 - SankeiBiz(サンケイビズ)


さああと7日。まだまだ三カ国回らないとなんない。


え、まだそんなに!?
自分で書いてて驚いてしまった。


がんばろう