THE長文日記

長文とか短文とかのクレームは一切受け付けません

月に七本の連載は無謀

Engadgetが「今月は七本でお願いします」みたいな無謀なことをカジュアルに言ってきてキレた。


七本て


自分で書いてみろ


週に二本ペースだぞ。売れっ子漫画かよ!
しかもエンガジェットの場合は写真必須。
全くテーマと関係ない写真掲載するわけにもいかないしそんなにネタがあるわけねえだろ。


七本ぶんのガジェットを買えるような原稿料が出るわけでもなし


エンガジェットの原稿料がどれくらい安いかと言うと、七本書いても、ぜんぜん更新してないこのブログのアフィリエイトより安い。ライターの扱いが低すぎる。


むしろどっちかっていうと、親友の矢崎飛鳥が編集長になったのでご祝儀のつもりで自分のブログに掲載したらもっと伸びそうな記事もエンガジェットに載せてきた。


にもかかわらず相談もなく一方的に通告されたので、ここはキレとかないとおかしいだろと思った。特に松村という編集者はなにか重大な勘違いしているとしか思えない。


きょうび、編集なんて仕事はちっとも偉くない。
ほんとうにデキる編集と、単にメディアのコントロール側にいることにあぐらをかいてるだけの編集で差がついてくる。この差はもはや埋めようもないほど深刻なもので、松村みたいな著者を舐めきった編集がメディアの質をどんどん下げていってるんだろう。


特に最近はライターだけで食っていくのは不可能に近いほど難しくなっている。
エンガジェットのライターもほとんどは兼業だ。


食わせてもらってるわけでもないのに失礼な態度を繰り返しされて一度も謝罪もせず毎月失礼なメールをしてくる編集者のほうが記事を書く主役であるライターよりも高い給料(さすがに食っていけるだけはもらっているだろう)なのは納得がいかない。


そりゃ無理やり書けば七本、かけなくはないと思うよ。でも僕の読者が傷つくじゃん。
粗製乱造されたものを清水の記事だと思って読んだ読者が可愛そう。


編集者によっては、著者をまるで人間扱いしない人がほんとにいる。
著者の固定客をあてにしてるくせに、著者のブランド、要は質的水準を守ろうとしない編集はほんとにいる。書店には残念ながらそういう粗製乱造された本もたくさん並んでいる。ほとんど同じような内容でおなじような著者に量産させたような本を作ってる編集は、どういう生き方をしてるんだろう。ご両親もさぞかし誇らしいことだろう。読者をバカにし、著者も馬鹿にしてるのだ。


そういう人と作る本はだいたいポシャるか、出たとしてもろくな本にならない。そういう手合とはもう二度と仕事しない、と思う。


矢崎がいなければエンガジェットの記事はゼロにしたいところだが、矢崎がいるからしかたなくたまには書く。書くけど本数は絶対七本は書けないよ。そんなに面白いネタないよ。


という内容をエンガジェットに書こうとしたが、松村にボツられる可能性大なので自分のブログに書く。


エンガジェットって信じられないことにノルマがあるのに原稿がボツられる。
他にもいくつか連載持ってるけどまるごとボツる媒体はエンガジェットしかない。ライターの苦労とか思いとかまるごと無視。理由も告げられない。また、公開されても連絡もなし。マシーンか!


そのくせ毎月請求書を出さないと原稿料が振り込まれない。そんな媒体みたことない。おれが毎月しこしこ自分で請求書を書いてる。おれの時給を払ってほしい。


アシスタントを使えばいいと思うかもしれないが原稿料が安すぎてアシスタントも雇えない。会社の秘書にやらせるわけにもいかないし


昔に比べて情報発信のハードルは下がってるし、ブログ媒体の価値なんか個人ブログより低くて当たり前の時代。


殿様気取りの編集が仕切ってる泡沫メディアが凋落していくのも道理。

アートという「逃げ道」

日本でエンちゃんとAI師匠が公共の電波に乗っている頃(Youtubeでも見れます)、俺は機内にいた。


本当はエジプトのカイロかドイツのベルリンに行く予定だったのだが、予定を変更して10何年ぶりにオーストリアのリンツに行くことにした。


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なぜなら、面白そうだったからである。


先月訪れたMITの石井先生が「最近アルスに毎回行ってるんだよねー」という話をしていて、え、石井先生が?毎回?ということで興味が出た。


「アルス」とは、言うまでもなく、「Ars Electronica(アルスエレクトロニカ)」というイベントである。


電気を使った芸術祭であり、毎年10万人が来訪する。


リンツは、有名な人がアドルフ・ヒトラーくらいしかいない街であり、町としてはそれはどちらかというとあまりありがたくない郷土の有名人であり、どうにかしたい、というモチベーションから音楽祭が始まり、音楽祭の連動イベントとして、電子芸術を扱うArs Electronicaが生まれた。


細かい内容や感想はニコニコチャンネルでやるとして、結論としては感動した。


特にラストの和田さんのコンサートが素晴らしくて、ああほんとうに、なんていうことだ。素晴らしい、という言葉の上を行く言葉が見当たらない。アンコールの声が流れて「いや、別に他の曲用意してなかったんですよね」といいつつも即興で行われるアンコールまで含めて素晴らしかった。感動した。


会場で石井先生とはぐれてしまい、ウロウロしていると東大の池上先生と鉢合わせした。


池上先生といえば、ご存知、人工生命のパイオニアである。
最近上梓されたこの本も素晴らしい。


作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門

作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門

  • 作者: 岡瑞起,池上高志,ドミニク・チェン,青木竜太,丸山典宏
  • 出版社/メーカー: オライリージャパン
  • 発売日: 2018/07/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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池上先生を中心に4人で飲んでいて、こんな話になった。


「清水さんはアートのこと好きだよね?」


「えっ!?」


どうだろう。おれはアートが好きなんだろうか。
そうでもない気もするし、そうでもなくない気もする。


ぜんぶのアートがわかるわけではないけれども、ときどきグッと心を掴まれるアートがあることは理解できる、くらいの理解である。


というか今回、アルスエレクトロニカに久しぶりにやってきて、石井先生の研究がまるごとアルスエレクトロニカセンターに常設展示されているのを見て度肝を抜かれた。


確かにあれはアート的であるが、実際には大真面目にコンピューティングのど真ん中を志向した研究である。それが「アート」の文脈で扱われてしまうことの恐ろしさと面白さを同時に感じたときだった。


今回、特に感じたのは、フィロソフィの大切さだ。
思想と言ってもいい。


世の中には器用な人や賢い人はごまんと居る。
しかし確たる思想やフィロソフィを持った人はそうそう居ない。


この2つの違いはなにか。
僕が言うとなんだか奇妙だけれども、「賢い人」には複数の指標があると思う。それは学歴や偏差値、IQといったもので測れる(と信じられている)ものだ。


逆に言えば「賢い人」はその賢さの評価尺度を他者に委ねている。つまりその思想は基本的には借り物である。


反対に、フィロソフィを持つ人というのは、基本的に誰かの尺度というものを気にしない。興味がない。ないといいつつあるのだが、行動原理のレベルにおいては、他者からの評価を顧みたりはしない。基本的には自分の評価は自分が下す。


厄介なのは、独自のフィロソフィを持っていると思い込んでいるだけの人で、それはルサンチマンから発生して、いわゆる「賢い人」が評価される評価尺度で評価されなかったことや学歴社会からドロップアウトしたことの反動として、酸っぱい葡萄理論を駆使するためのフィロソフィを構築する場合である。


本当に正しいフィロソフィを持っている人と、単なるルサンチマンをフィロソフィと主張する人の違いを認識するのはとてもむずかしい。唯一方法があるとすれば、長い時間をかけてその人の言動を追いかけるしかない。


真のフィロソフィを持っている人にとって、ひとつの逃げ道として「アート」があるのだ、と僕は思う。


「アーティストになろう」と思ってフィロソフィを構築するのとは意味が違う。


たとえば河口洋一郎先生という人がいる。
彼の作品を見ても、最初はわけがわからない。


しかし繰り返し繰り返し同じモチーフを手を変え品を変えやっていくうちに、彼がある種の偏執的な哲学に基づいてそれを構築しようとしていることがわかる。


会場でも、日本人の研究者たちが集まって、改めて「河口洋一郎先生は凄い」という話になった。


「なんで?なんのために?」という疑問に答えず、とりあえず「自分が面白いと思ったから(=フィロソフィ)やってみた」という作品を文明が許容し、理解するための逃げ道がアートなのだと、今は解釈している。


でなければ全く、わからないからだ。
アートという逃げ道がないと、普通の人との接点がなさすぎるのだ。



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たとえばこんな金属片がバーンと会場に飾られている。


「なんじゃこりゃ」と思う。この時点で普通の人は、これを「アートだ」と言われれば納得できるが、「製品だ」と言われると納得できない。


これは3Dプリンタで作った橋の一部らしいのだが、それも説明を読まないとわからない(その時点で僕は失敗作ではないかと思うのだが、アートの世界では文章による補足説明は認められている)。


コレを作った人に、将来建設業で一旗揚げようとか、そういう野心は感じられない。


ただ「やれそうだからやった」「面白そうだから作った」のである。
これを、10年継続できたら、それは立派なアートになるのではないか。


身近なアーティストに、八谷和彦さんがいる。
親友だと思っているので敢えていうが、彼は気が狂っていると思う。


ポストペットはまだいい。商業的にも成功した。しかしジェットボードと宇宙ロケット、そしてメーヴェ、特にメーヴェは、狂気というしかない。


ものすごく狂ったことをやってるのに、話をするとすごくまとも。しかもどう考えても儲からないであろうこと(=メーヴェ)に10年の歳月と1億円以上の資産を投じることができる。これはもうアートとしか理解しようがない。


誰も彼に「メーヴェを作ってくれ」とは頼んでないのだ。
彼自身も「メーヴェを作って金儲けしよう」という意図はまったくない。


むしろどちらかというとメーヴェを作るために金が必要なのであり、だからクラウドファンディングを行うのだ。


石井先生はたびたび僕らに「それをやってしまうとaestheticが失われる」とかたった。「それ」は、形状だったりテーマだったり、いろいろだが、石井先生本人はアート作品を作ろうとして研究しているわけではないのだ。ただ彼が生涯をかけて挑んだことが、客観的にはアートに見えてしまうだけである。というか、アートとしてしかまだ理解できないだけだ、とも言える。


おそらくチャールズ・バベッジが階差機関を作ろうとしたときも、周囲からは実用的な機械と見做されず「アート」のように見えただろう。


考えてみれば、アカデミズムとアートはかなり近しい位置にあるのである。
どちらも周囲から理解不能にも思える情熱を特定の領域に注ぎ込み、論文なり作品なりの形で表現して見せることで、そのものの対価とは別の活動費を国やパトロンから集め、作品制作を繰り返す。


そこいくと、池上先生の専門分野である人工生命(ALIFE)というのは、僕自身が「アート」というものがなんなのか理解する助けとしては大いに役立つことになる。


この分野では大きな流れは「セルオートマトン」と「マルチエージェントシステム」という2つの領域である。


まあセルオートマトンも、マルチエージェントシステムの一種と捉えることもできるので、一緒にしてもいいのだが、セルオートマトンは構造上、通じ用のマルチエージェントシステムでは表現できないaestheticがあるので別物と捉えたほうがいい。


セルオートマトンを考えたのはアーテストではなく数学者だ。
しかし、その振る舞いは極めてアーティスティックである。



僕自身、セルオートマトンに心を奪われた者の一人だ。
中学の頃は自作のセルオートマトンで夏休みの美術の宿題を済ませた。


なんとかこれを仕事にできないか、と何十年も考えているが、まだ難しい。いまのところこれをビジネス化して最も成功した例はシムシティくらいしか思いつかない。シムシティでは地下や公害がセルオートマトンで表現されている。


人工生命は面白いのになかなか金にならない。
だから予算を獲得する逃げ道としては、「これはアートなのだ」という説明が通用するならば使うほうがいいに決まっている。


あくまでも出発点は「心の奥底からやりたいと思うこと」であり、それがどうしようもなくとめどなく溢れ出てしまう状態がまずあって、マネタイズの明確な手段が見つかってない段階が「アート」なのである。


そういえば八谷さんがたくさんのユーザーの日記を集めたメガ日記というサービスをやっていたとき、まだ世の中にブログというものは存在していなかった。


日記を書いて公開するためにお金を払う人がいるとは夢にも思えなかった時代である。ネットにおける広告ビジネスもまだ一般的ではなかった。


あの段階でメガ日記というのは確かにアートであり、それが実用的になったものがブログである。


そう考えると、実はこれからの企業はアートというものに対してもっと真摯に向き合うべきではないかと思わなくもない。少なくとも企業における先端研究というのは、一種のアートでなければならないかもしれないし、もしかすると、社内でアートを研究したり発表したりするのではなく、世の中にあるアートをもっと深く理解することによって時代や人々が潜在的に求めているものを見出す洞察を得ることができるかもしれない。


アートというのはビジネスマンから遠い存在のように思っていたが、実はまるで逆で、ビジネスマンこそがアート的aestheticを持たなければならないのではないか。


そんな気がした

海外で暮らす日本人はどこかがおかしい、と彼は言った

 むかし、アメリカに移住する直前、サンフランシスコのベンチャーで働いている男性にこんなことを言われた。


 「日本でうまれた日本人は日本に住むのが一番快適なはずだ。それでも海外で暮らそうっていう日本人は、どっかおかしいんだよ。イっちゃってるか、ネジが2,3本抜けてるか、とにかくフツーじゃない。そして君もアメリカに移住しようなんて考えてるところが、そもそもフツーじゃないんだよ。こちら側の人間なんだよ」


 そのときは「えー、そんなことないんじゃないかな」と思っていたのだが、実際に移住してみてからジワジワとわかるようになった。


 まず、テレビがない。
 「いまどきテレビなんて見ないよー」と思うかもしれないが、僕が移住したのは16年前だ。NetflixもYoutubeもない時代である。


 テレビ放送そのものはあるが、日本語の放送は衛星でNHKを見ないといけない。1チャンネルである。民放がひとつしかない佐賀県・徳島県のさらに1/3しかチャンネルがないのである。


 「アメリカにいるんだから英語でテレビをみればいーじゃない」


 などとのんきに考えていた時期が僕にもありました。
 最初は面白がって見てたんだけど、結論から言うと無理。


 無理っつうか、もちろん見れるし意味がわかんなくもないんだけど、心の底から楽しいかというと微妙。特にコメディとかが難しい。結局、英語で見るのはニュースとスポーツになるが、もともとスポーツにそんなに興味がないからスクリーンセーバー以上のものにはならない。


 結果、楽しみが2ちゃんねるを見ることくらいになってしまい、ほとんど廃人のような生活になる。あと、当時はアメリカのマンションは日本よりも少し回線速度が遅かった。インターネットの普及が早すぎて光ファイバーより前にケーブルテレビのインターネットが普及していたのでマンション全体で1.5Mbpsとか、信じられないくらい遅かった。



 今回、久しぶりに丸一ヶ月海外をフラフラしてるわけだけど、毎日いろんなことが起きて忙しい。


 昔と比べて変わったのは日本のテレビをみようと思えばVPNとTVerで見れなくもないということ。Youtubeをみればいくらでも日本語番組が見れるということ。


 人や世代によるかもしれないが、これだけでだいぶアウェイ感というか、ホームシック感はなくなった気がした。


 次に食べ物についてだけど、これは実はガッツリ暮らすときにはあんまり困らない。


 大きな都市ならジャパンタウンみたいな場所があって、そこで日本の食材を買えるから、家でカレーでもトンカツでも作ればいい。


 もちろん職人の技が必要な高度な料理は難しいが、食べ物だけでホームシックになることは少ないかな。



 「暮らす」という視点で見ると、やっぱりパリは魅力的だ。


 今回、いろいろな都合と事情でパリに一週間くらい滞在しているんだけど、食べ物も探せば美味しい店はいくらでもあるし、なによりワインが安い。3ユーロくらいのワインでも全然美味しいし、たまに贅沢する気持ちで10ユーロくらいのワインを飲むと天国に行くような気分である。


 特にソムリエの友人の勧めで訪問したブルゴーニュ地方のボーヌという町は、「食の都」とも呼ばれる。インターネット回線さえ快適ならここに住むこともできるのではないか(美味いから)。


 実際日本人もけっこう住んでるらしい。


 まーでもどうかね。とはいえ東京の生活の快適さとは比べ物にならないかな。


 快適に暮らしたい、なら僕にとってベストの選択肢はやはり東京だろう。


 でも自分の世界を広げたい、という発想なら、快適さは犠牲にするしかない。


 そうすると全く別の視点で住む場所を選ぶことになるわけだ。確かにこういう思考に陥るのは「普通じゃない」状態なのかもなあ

3分間で気楽にプログラミングを学ぼう! 「ぷいプロ」公式ページOPEN!

 昨日も軽く告知しましたが、いよいよ今週日曜日から「ぷいプロ」こと「ちちんぷいぷいプログラミング」がスタートします。


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 果たして正味3分でアイドルにプログラミングを教えることができるか!?
 人類史上最大の挑戦が今始まる!?


 それに伴って地味な番組公式ページもスタートしたので告知しておきます。
 番組は、Youtubeでも視聴可能です。


www.puipro.com

地球一周あと7日

なーんかあっという間だったなあ


これまでも何度か地球をぐるぐる回ったり、ヨーロッパをあてどなく彷徨ったりとか、いろいろやってなくはなかったのだが、今回はやったことがないことに挑戦したり、会ったことがない人に会ったり、実際にそこで暮らす人の話を聞いたり、とにかくやることが多くて時間があっという間に過ぎていく。


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特に今回の視察で大きかったのは、ヨーロッパの農業について学べたこと。ブルゴーニュ地方を訪問して現地のぶどうの収穫に立ち会ったのは非常に大きな経験だったし、他にもロボットを使って農業改革をしようとしている研究者に話を聞いたりしたのも、思いのほか参考になった。


また、様々な研究者と話をしたが、ディープラーニングに関して、特段どこが傑出しているということもまだなく、この分野に関してはまさしく全世界的に今が発展の途上にあることを確信できた。


中国脅威論とかあるにはあるのだが、深層学習を現実の仕事に当てはめる、という部分の社会実装においては日本も欧米もまだそれほど深刻な差があるわけではないように思えた。


深層学習に関しては、あまりにも応用範囲が広い技術であるため、「深層学習は凄い」という言葉は「自動車は凄い」と言ってるのに近い。



たしかに凄いが、自動車を構成する部品には、エンジン、給排気系、シャーシ、タイヤ、エレクトロニクスなどがあり、「TensorFlowが凄い」とかはシャーシに相当する。「NVIDIAが凄い」はエンジンに相当すると言えるだろう。この世界ではアルゴリズムはエンジンを制御するECUみたいなもので、細かい差異はあるが車の性能を劇的に変化させるほどの変化は起こしにくい。意味がわからない人は湾岸ミッドナイトを読んでくれ(ジェッティングの富永)。


そこにくると今僕が思っている感覚としては「深層学習は中国が凄い」という言葉のひとつは、「ECUのエンジニアが10万人いる」みたいなもので、たしかに凄いのだが、そこに決定的な差別化要素があるか、というとそこまで怖いわけではない。


誤解を恐れずにいえば、深層学習のアルゴリズムを理解することはそんなに難しくない。どちらかというと場数が足りないから勘所を掴むのが難しいだけである。そのために必要なのは論文を読むことよりもむしろ実際にGPUを動かして勘を掴むところだろう



もし警戒すべきものがあるとしたら、自動車をどのような目的で作り、どこにどのように走らせるべきかを考える仕事、自動車でいったら「乗用車」「トラック」「バス」「除雪機」「トラクター」「ダンプカー」「ショベルカー」「ブルドーザー」のようなカテゴリーを考える仕事だったり、実際にそれを使って何らかのサービス、例えば「宅急便」とか「乗合自動車(バス)」とか「移動型店舗」とかを作り出すところに大勢の人が集まってあれこれ考える状態であり、中国には深層学習を使える人たちの絶対的人口が多いので、ここもすごくなる可能性がもちろん高いのだが、そこに関してはまだ目立った成果は見えないように思える。



反面、シリコンバレーのベンチャーのここ最近のいちばん目立つ成果が、電動キックボードのレンタルサービスや、人間をパシリとして使って近所の食べ物を届けさせるサービスだったりとか、およそハイテクを活用するというよりも、人間がハイテクに活用されるサービスがもっぱら注目を集めている。あれ?ローテクになってないか?


面白いことに、BIRDだのLimeSだのの電動キックボードのレンタルサービスはベイエリアでは法律で規制され、むしろオースティンとかの田舎にいくとみんなが大喜びで使っている逆転現象が起きている。遭遇率としてはだいたいセグウェイと同じくらいだ。


パリでもBIRDやLimeSがあちこちあるが、僕の感覚としてはパリの人口に対してLimeSの数が少なすぎるし、アプリを頼りに20分くらい歩いてLimeSにたどり着いても、肝心のLimeS本体が見つからなかったことが続けて二度あった。どうもひとつは専門学校の近くでロストしていたので、アホな学生が学内に持っていってしまったりしてるんだろうが、そういうモラルの欠如した世界ではそもそも性善説を前提とするシェアリングエコノミーとは相性が悪い。電動キックボードそのものはとても良いけれども、運用は難しいのではないかと感じた。


今回、誰に会っても、「ニューヨークに住め」と言われたが、今回まわった都市の中ではニューヨークこそ最も住みたくならない都市ナンバーワンであった。


ボストンからクルマで三時間くらいかけて移動して、最初にハイウェイを降りたあたりがハーレムという有名なスラム街のど真ん中だったこともあるが、とにかく危険と隣合わせすぎる。マンハッタンの南の方にいけば平和な空気が流れてなくもないが、テロとか犯罪とかを警戒して生きる人に敢えてなるというのは難しいのではないかと感じる。


テロや犯罪の危険、という意味ではロンドンでもパリでも同じ程度の緊張感がある。こっちの人たちは常に何らかの怒りを抱えた集団が闊歩していて、今日もパリの5区あたりで真っ昼間から半裸でブブゼラを鳴らしている輩に絡まれそうになったり、ルーブルでは朝っぱらからロマ族の一段に絡まれ、白昼堂々リュックを盗まれそうになってやむなく大声で威嚇するなど、緊張感と隣合わせの行程だった。


ボストンでもロンドンでも警官が日常的にサブマシンガンを携行していて、もはや拳銃の制圧力では無力だと思われている程度には危険度が高いのだな、と想像することしかできなかった。実際、去年もド派手なテロが起きてるし。パリでは今年の5月に無差別殺傷事件が起きてる。ちょうど滞在してるホテルのすぐそばだ。



全体として、ニューヨークは一番住みづらそうではあったが、英語の訛りへの寛容さという点ではニューヨークが一番であり、それは唯一僕でもなんとかやっていけそうだ、と感じられるポイントだった。ロンドンでは英国流の発音ができないとわざと聞いてないふりをされたり、パリではそもそもフランス語訛りの英語が聞き取りづらいのと、英語を喋ってくれる人がそもそも少ない(フランス人は伝統的にイギリスが嫌い)のに辟易した。


「ニューヨークかパリに住みなよ」と冗談のように言われていたのだが、なぜそんなことを言われたのか理解を深める機会にはなったと思う。


個人的には、家は住みやすいニュージャージーにしてオフィスをマンハッタンに構えるのが現実的な気もするが、現地の人たちの感覚がいまいちつかめない。それは埼玉の上尾あたりに住んで都内に通うみたいな感覚なのか。それとも神奈川県の川崎から都内に通う感覚なのか。まあどっちでもいいけど。


あと、今回いろいろな人と話しをして、一番大事だと思ったのはSF的教養である。
僕は昔SF作家になりたいと思っていた時期があって、SFは修行のようにずっと読んでいたのだが、そうしたことが実はとても重要だったことに今頃気づいた。


SFの多くは絵空事ではあるが、真実か、それに近いことがほんの少し以上は含まれていないとSF的作品とは見做されない。特に有名な小説や映画はそれが面白いとか面白くないとか以前に、見ておかないと会話ができない。スターウォーズはSFか、という話は置いておくとして、たとえば「ジャービスのようなAI」と言われて、ジャー・ジャー・ビンクスしか思いつかないのでは会話にならない。銀河ヒッチハイクガイドは、この世界におけるロミオとジュリエットのようなもので、アシモフのロボットシリーズや銀河帝国興亡史を読んでおくことは、arxivの論文を漁ることよりも時として重要な洞察を与えてくれる。


教養というとえらそうだが、要は「共有するイメージ」を持っているか、というのが話を何倍もらくにする。


「執事のように仕えてくれて、たまに小粋なジョークを飛ばすAI」という説明をせずに「ジャービスのようなAI」と説明したほうがずっと効率的にイメージを伝えることができる。


前者の説明だと「それはAlexaやSiriでいいのでは」という反論もあり得るが、「J.A.R.V.I.S.やTARS、KITTとAlexaやSiriやGoogleアシスタントの違い」はそれを知ってる人なら一発で理解できるイメージだ。


これを議論するだけでも価値がある。


この業界では、偉い人ほどSF作品を熟知している。
ニール・スティーブンスンのスノウ・クラッシュがなければ「メタヴァース」という言葉は理解されなかったし、キリスト教的(というよりもアブラハムの宗教的というべきか)イメージとコンピュータの基礎理論のイメージを重ねるというイメージも伝わりづらい。


特に人工知能という分野は、理論よりもむしろフィクションのテーマとして遥かな過去から繰り返し用いられてきたモチーフである。


それを知るメリットとして2つの側面がある。
第一に、SF的作品に登場する人工知能、またはそれに近しい知性体は、人間が抱く「理想のパートナー」を定義し、それが実際に理想的であるかどうかの思考実験の過程と見做すことができる。


たとえばアシモフの「ロボット三原則」はロボットの人工知能(作中では陽電子頭脳)に人間が求めるべき要件定義とその思考実験である。「ロボット三原則」に関しては「われはロボット」があまりにも有名であるが、この短編だけを読んでも「ロボット三原則」への考察は十分ではない。


アシモフのロボットシリーズを全て読み、銀河帝国興亡史を全て読み、最後にその2つを統合する「ロボットと地球」を読んで初めて「この三原則は役に立たないダメ原則だ」と類推することができる。もちろんどこがダメで、どこがそうでもないのかもわかる。


第二に、さまざまな作品に登場するさまざまな人工知能のイメージと、現実の人工知能技術を比較して、「あと何が足りないのか」を想像するきっかけになる。


現状の人工知能技術によって作られたものが、過去のSF作品のどの人工知能にも及ばないポンコツであることは関わっている人間には当然の事実である。


では一体、あとなにが足りないのか?
それを考えるのはとても大事なことで、「人々が求める理想の人工知能」の姿がSF作品で描かれているとしたら、「現状はどこまでできていて、どこからできていないのか」を現状との比較によって把握し、研究の方向性を決めることができる。


しかもこうしたSF作品の多くは、世界共通の話題として使うことができる。
もし自分のいいたいことを英語で上手く伝えられなかったら、「この映画を見てくれ」と説明することができる。それは千の言葉よりも雄弁にイメージを伝える武器になる。


逆に、SF作品を知らないと、相手の言ってることが理解できない。


あ、その意味では今度ひさびさにゲンロンカフェで「男たちのトニー・スターク」というイベントをやるんだけど、そもそもトニー・スタークを理解するためにはハワード・ヒューズとウォルト・ディズニーを理解しておかなければならないことを知らずに「アイアンマン」を見ても、その面白さは半分も理解できない、と思う。いや、逆でもいい。「アイアンマン」を見た後で、ハワード・ヒューズとウォルト・ディズニーについて調べるのでもいい。明らかにこの二人はトニー・スタークのモデルであり、ハワード・ヒューズはトニーの父、ハワード・スタークのモデルでもある(でなければ発明家で大金持ちで映画監督という設定になるわけがない)。


男たちが語るトニー・スターク – ゲンロンカフェ


アメリカでは国語の時間にSF小説を読ませられるそうだ。でも読んでる本人たちはSFを読んでるという感覚がない。あたりまえのものとして読んでいる。1984とか。ちょうど我々が平家物語の冒頭を暗唱するようなものだ(いまだにあれになんの意味があったのか理解するのはまだ難しい)。


だからアメリカを理解するにはSFを理解する必要がある、のではないかと思う。


告知ついでにもうひとつ。
既報の通り、今週から毎週日曜あさ9時55分から、BSフジとFNN.jpでプログラミングとAIの教育番組「ちちんぷいぷいプログラミング」がスタートする。


アイドルの小池美由さんとエンちゃんの掛け合いが楽しいのでぜひ。



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UEIとフジテレビ、子供向けプログラミング&AI教育番組「ちちんぷいぷいプログラミング」を制作 9月9日より毎週日曜日に全国放送決定 - SankeiBiz(サンケイビズ)


さああと7日。まだまだ三カ国回らないとなんない。


え、まだそんなに!?
自分で書いてて驚いてしまった。


がんばろう

彼はもっと稼ぎたいから、ロンドンを離れてカナダへ行くという

海外でタクシーやUberに乗る楽しみのひとつは、ドライバーの方との会話だったりする。


いろんなバックグラウンドの人がいて面白い。


特にUberの場合、昼職を持っている人が多いので、昼間はどんなことをしていて、夜はどうしてUberで稼いでいるのか聞くのが楽しい。ちょっとしたガールズバー感覚である。


昨日、いつものようにFifteen詣でをしたあとで拾ったUberのドライバーさんは黒人で、アフリカにまだ小さい娘と家族を残しているのだという。


稼げると聞いてロンドンに来たが、そもそも英語が苦手だ。彼の地元ではフランス語が主流であり、フランス語で話せるカナダのほうがもっと稼げそうだ、ということで移住するらしい。


仕事は博物館の警備員で、うーむまあ確かに、もっと言語が扱える環境だったら高い収入の仕事につけるのかもしれない。


でも、今は地元まで7時間のフライトで帰れるが、カナダに移住すると17時間もかかってしまうのが少し大変だと言っていた。


不思議だ。決して賃金が高い仕事ではないはずなのに、こういうスケールで移動する人は海外のタクシー運転手には少なくない。ラスベガスで拾ったタクシーの運転手も、中東に家族を残して出稼ぎに来ていた。


それに比べると、日本人が海外でタクシーやUberの運転手をやって食いつないでいるという話はまず聞いたことがない。


シリコンバレーでいきなり無謀な調達と起業をするくらいなら、まずUberの運転手あたりからスタートして自立した生活をしつつチャンスを伺う、というロールモデルがあってもよさそうなのに、あまり聞かない。いま居るのかな?


まあそれはもちろん、就労ビザをとるのが極めて大変であるという事情とシンクロしているかもしれない。今は昔よりもアメリカの就労ビザをとるのはさらに厳しいのかも。


でもアメリカじゃなければイギリスだ、カナダだ、という発想にみんななかなかいかない。


むしろアフリカの地元の家族を食わせるために単身ロンドンだのカナダだのに行けるというタフさに軽く憧れを禁じ得ない。


今回の出張をする前、「まあとりあえず一周しちゃえばあと二年くらいは国内に居られるだろう」とのほほんと考えていたのだが、いざ海外に来て、いろいろな人に会って、いろいろなことを見聞きすると、それが完全に間違った考えだということがわかった。


むしろ自分は今まで以上に海外に出て、情報収集と仕事づくりをやらなければならないという事実を痛感した。もうそういうお年頃なのだ。もはや現場のエンジニアでもないし


そういや、僕の周りの上役たちは、絶えず地球をぐるぐるまわっていて、「この人(たち)は飛行機が墜落する確率とかたまに計算したくならないのかな」と不安に思うことすらある。


そして僕はもうそっち側を目指していかなければならないのだという自覚めいたものがなんとなく芽生えてきた。自分が国内にへばりついていては、チャンスを逃す。常に世界中どこにでも行くつもりで、ぐるぐる回って仕事をこなす。これだけが、自分のレゾンデートルなのだという気がする。


何年か前に上役が「清水は近々パリかニューヨークに住まないと駄目なんじゃないの?」と言っていて、「ははあ、そうですねえ」といいつつも心の中では半ば「ご冗談でしょう会長さん」と思っていたのだが、どうもいよいよご冗談ではなかったような気がしてきた。


それくらい、世界の変化は目まぐるしく、極東の島国に閉じこもっている状態では大局を見失うのではないかという危機感が自分の中に芽生えた。


まあこのブログを読んでくださってるみなさんは、「清水はあちこちいって美味いもの食って気楽でいいなあ」と思っていらっしゃることでしょうが、当然、ここで書けないところで書けない仕事をしているわけですよ。


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なんでそんなふうに思ったのかというと、ひとつは、実は世界ではまだまだAIはぜんぜん社会実装されていないということ。日本が一番真面目にやってんじゃないか。中国もやってるけど、意外と社会実装という側面だけみたら日本も負けてないと思った。


中国の場合、一党独裁なので共産党がやろうと思えばできることが多すぎる。その反面、自由主義社会では経済性が先立たないとできることもできない。そしてみんな、GoogleとFacebookとAppleとAmazon、いわゆるGAFAに遅れを取って、半ば全体的には「諦めてる」というムード、要は「厭戦ムード」は世界共通である。それはシリコンバレーですら例外ではない。


要は、シリコンバレーでは「AIでGAFAに対抗しよう」なんていうベンチャーはほとんど生まれない。なぜならこれは本丸だからだ。シリコンバレーの誰も、IntelとかOracleに正面から戦いを挑まないのと同じだ。


まともなエンジニアで、安定を求めるなら、GAFAのどれかに入るか、その間でジョブホップするほうが普通だからだ。


ある意味で、シリコンバレーのベンチャーは全員がGAFAの職員か、そこからスピンアウトしたはみ出しものか、GAFAに相手にもされない負け組しかいない(ごめんね井口)。



一番あたらしくてイケてると言われたのが電動キックスクーターのレンタルサービスだなんて、もはやシリコンバレーはハイテクの産地として後退してるとしか思えない。そんなものを作るのにスタンフォードの博士号は必要ない。高校を卒業している必要もないだろう。



じゃあシリコンバレーのビッグネームに対抗することがまるきり不可能かというと、そうではないことは英国のARMやスウェーデンのMySQLが証明している


かつてのシリコンバレーの優位性は、「ハードウェアを作って売る会社」が集中していることにあった。


だからヒューレット・パッカードの廃品を集めていたガキが大物に化けたりできた。


コンピュータは、まず学ぶのにハードという環境が必要だったから、ハードが余っているくらいの場所が必要だった。ベル研究所内にハードが余っていたからUNIXはうまれた。


今や特別なハードが必ずしもなくても、世界のどこでも世界を相手にした勝負ができる。インターネットがシリコンバレーの地理的優位性を無効にした。


それでもシリコンバレーにGAFA対抗の会社が生まれないのは、シリコンバレー全体を包む「厭戦ムード」である。GAFAと戦うような無謀な会社にシリコンバレーのベンチャーキャピタルは金を出したくならない。だいたい、そんなことを表立って主張したら、すぐに買収されるか引き抜かれるか、とにかくシリコンバレーという土地にいることがマイナス要因になるのだ。


しかしシリコンバレーを離れれば、先に例を上げたARMやMySQL以外にも、チャレンジャーとなるような高い目標と精神的タフネスを持った起業家はゴマンといる。


そうした起業家は、ナショナリズムやイデオロギー、その他、大金を集めて高学歴を雇うという手段以外の魅力を存分に発揮して、ほとんど無謀とも思える難関に挑戦しようとしている。シリコンバレーではない場所の「地の利」を活かした戦い方をしていく必要がある。


僕は日本人としてうまれ、日本人として育ったため、地の利が最もあるのは日本という場所である。


そこを自分の拠点として選んだこと自体は迷いはないし間違っていないと思う。自分の能力を最大限発揮できるのは日本という場所であることは間違いない。


しかし、同時に、だからといって日本国内に閉じていては、大きな流れを見失う可能性がある。


世界中の人々や企業、有用な研究チームに目を向け、GAFAに先立って発掘し、実用化する、または国内の事例を適用できる海外の企業をいち早く見つけるか、顧客企業と共同開発したソリューションを海外で売り込む。


そういうことをやっていくためには、むしろ自分自身の身体が日本国内に縛り付けておくべきではないのではないかと思った。



いや、明らかに僕は日本が好きだし、日本に住むこと、東京に住むことに慣れきっている。個人の幸せだけ考えれば、東京に住み続けるのが良い。けど、だからこそ、確かにニューヨークだとかパリだとか、全く異なる環境に身をおいて、もっとアンテナを高くしておく必要性もまた強く感じたのだ。



これはたぶん30代の頃には全く想像もつなかった心境であり、40代になったからこそそういう考えに自然に至るのだなと思った。まあべつに行くときは一人で行けばいいから気楽なものではあるが

そして彼らはまた月を目指す

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オースティンに来たついでに、ヒューストンまで足を伸ばし、NASAに行ってきた。


オースティンから車で3時間ちょい。


「そういや、今日って営業してんのかな」


いつもここに来てからそんなことを考えている気がしないでもない。


駐車場の入り口でおっさんがなにやら話しかけてくる。


「今日はNASAの副長官のスピーチがあるんだ」


「へー。珍しいの?」


「かなりな」


サターンV型ロケットを見る。
いつだってこいつは人の心の根底にある冒険心を刺激する。


とんでもねえやつがいたもんだ。


サターンV型ロケットは、いつも思ったより少し小さい。
もちろんでかい。ロケットの中では抜群にでかい。


けれどもやはりたったこれだけで月まで行って帰ってきたということが信じられないくらい、小さく、頼りなく見える。


オースティンに戻って、昔からの友達のコンラッドとBBQ料理を食う。


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やはりテキサスに来たらBBQ料理を食う必要がある。


コンラッドが予約してくれたLambartsの料理は絶品だった。


ビーフブリスケットにポークリブ。そして特製のBBQソース。
これの雑な感じが堪らない。


コンラッドが「おまえ今日NASAに行ったのか?副長官が来てただろう?」と言う。


「ああ、行ったけど・・・」


「今日、NASAのペンス副長官が、月面基地の建設と火星有人宇宙計画についてスピーチしたはずだ。ヒューストンで」


www.nasa.gov



「マジか」


「イーロン・マスクのスペースXとロッキード・マーティンでジョイントベンチャーを作るらしい」


「マジか」


半世紀近くも前に、アメリカ人が月へ行く情熱は潰えたかのように思えた。


けど彼らは再び始動する。さらにその先を目指して。



「すげえな。またやんのか」


「おれはトランプを評価してる」


コンラッドは言った。


「彼は経済を成長させ、北朝鮮の挑発をやめさせ、人類を再び月に送り込もうとしている」


確かに
火星に人類を送り込むんだとすれば、トランプは歴史に名前を残すだろう。


とんでもねえやつらだ。